第三章

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 彼の顔はひどく恐れの色に染まっていた。きっと僕も彼と同じ顔をしているはずだ。  はらっちは俯いていた顔を上げた。 「篠田心愛って知っていますよね」  教室にはその言葉の余韻が漂い、僕は口元をぎゅっと結び、その言葉の行方を見守った。    開かれかけた口は再び閉じて、榎田先生は懐疑的な表情を浮かべた。その瞬間、僕はすぐさま床を見つめた。 「ごめんなさい、誰かしらその人は?」  僕は右手でこめかみを押さえた。彼女のはつらつとした笑みが消えていく。僕の知っている心愛は本当にあの心愛なのだろうか。そんなことすらも自信がなくなる。もうだれ一人として本当の心愛を知らないかもしれない。僕のなかに残る心愛は本物だろうか。  左手を握りしめる。 「いや、先生冗談でもそりゃーきついっすわ」  幹人の焦る声がした。 「そんな冗談を言うはずないでしょう。みんなこそ、どうしたのよ。その、篠田さんって人はいったい誰なの?」  もうやめてくれ。僕は耳を塞ぎ、無音のなかにいたい。 「嘘だろ」  幹人のあんな絶望した声を聞いたのは初めてだった。  もういなくなってしまう。それは死よりも重くて、今までのことが水の泡になってしまうものだ。どうして彼女の捜索願が撤回されてしまったのか、今なら何となくわかってしまう。悔しいとかよりも、僕は自分のなかから彼女が消えてしまうのではないかという恐怖の方が強かった。あれほど熱烈に誰かを大事にしたいと思ったことも、誰かを好きになったこともなかった。動かなかった律動がいつの間にか彼女といるうちに動きだし、僕は違った世界をみることができた。そのあらゆるものが、僕のなかから削り取られていくなんて嫌だ。 「先生お願いです」  絞り出した声は情けないものだった。でも、きっと今行動しなければ、すごく後悔する。僕はもう彼女を手放したくないんだ。 「どうしたの、空田くんまで」  榎田先生の声は丸みを帯びていた。  精神的健康がイエローということが一瞬頭によぎり、僕は言葉を詰まらせる。こんな時でも、僕は自分の体裁を気にしている。くだらない。もうこんな自分とはおさらばだ。  僕は視線を先生にぶつける。 「もう一つだけ席を増やせませんか」  訝しんだ表情が浮かびあがったところでさらに追い打ちをかける。 「お願いです」  僕はぎゅっと目を瞑り、頭を下げた。  その僕の声に続くように、クラスのあちらこちらからお願いしますと声が上がる。 「仕方ないわね。あなたたちがどういう気持ちなのかわからないけど、なんだか切羽詰まっているようだし、一つだけならいいでしょう」  よかったと、肩の力を抜いた。これで彼女は、まだいられる。このクラスに篠田心愛はちゃんと存在する。  その安堵感から、僕は張りつめていた神経をすべて解除させてしまった。だから、白坂さんがこちらをひどく睨んでいたことも、怒りに震えていたことも僕は気づかなかった。  椅子がひっくり返る音がした。  僕は体をびくつかせてから、そちらに首を向けた。  白坂さんは震えていた。  今向かっている空気は彼女も望むようなことだったはずだ。なのに、怒りに狂った人間の顔がそこにはあった。人の気持ちは正確にはとらえきれない。アンドロイドの気持ちさえも理解できないのだから、それは仕方がないことなのかもしれない。  心に小さな後悔が芽吹く。 「あんたのせいなのよ」  彼女はそうぽつりとつぶやいた。  それが誰に向けられたものなのかは明白だった。肩が小刻みに震えている。その震えが一瞬とまると、矢のような鋭い視線がこちらに降り注いだ。
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