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夕暮れの空をファインダー越しに眺める。
空が夕日に照らされて赤みがかっていた。数羽のカラスが悠然と空を飛行し、その向こうには飛行機雲が一本の線を描いていた。
誰もいない静かな教室で世界を眺めるのは、僕にとってかけがえのない時間だった。特に今日みたいな虚しい日にはぴったりだ。
「珍しく落ち込んでいるようね」
僕はカメラから手を放して、後ろを振り返る。
眼鏡をしていない西尾さんはそこに立っていた。
「そう見えますか」
「ええ、少なくとも私にはそう見えたわ」
そう言って、西尾さんは僕の隣にくる。
窓辺に腕をのせて目を細めていた。
「この世界ってあまりにも綺麗よね。ときどき、私には勿体ないと思ってしまうことがあるわ」
僕は小さく頷いた。
「みんなきっと怖いのよ。ほら、今日先生が篠田さんのこと忘れていたじゃない。ああいうことがとてつもなく恐ろしいことで、目を背けたくなるのよ。だから、ついきつく当たってしまうんだと思うわ」
彼女はうっとりとした表情で景色を眺めていた。彼女もこういう顔をするんだなと、僕は少しだけどきりとした。
そんな彼女がこちらを向く。
「空田くん、一緒に篠田さんの病院に行ったこと憶えているかしら」
「もちろん、覚えています」
「あのときね、私は空田くんに一つだけ嘘をついたの」
僕は腰かけていた窓枠からおりて、首を傾げた。
「そうなんですか?」
「ほら、彼女が倒れちゃって大変だったじゃない。私も言いたいこと伝えられないまま帰るの癪だったからずっと待ってやろうと思ったのよ」
西尾さんは恥ずかしそうに笑う。
「でも、何時間経っても目を覚まさなかったし、それに……」
「もう塾の時間が迫っていて帰らないといけなかったんですよね?」
西尾さんは首を横に振った。
「それが嘘なのよ。私は塾なんて通っていないの」
「そうなんですか……。学年上位だから、てっきり塾に通っているものだと思っていました。でも、なんでそんな嘘を……?」
西尾さんはなにか悩んでいるようだった。それほど話しにくいことなのだろうか。僕は彼女が口を開くまで、じっと待った。
「図書室で私が言ったこと……覚えている?」
西尾さんは恐る恐るこちらに尋ねた。
僕は彼女が言わんとしていることを分かっていた。だけど、あの時の西尾さんが何度もフラッシュバックして、頭に浮かぶ言葉を萎ませていった。
僕はこくりと頷く。
「私はさ、空田くんをあれほど夢中にさせる彼女って何だろうって思ったのよ。でも、彼女に向かって必死に呼びかける空田くんを見ていたら……もうあそこにはいられない……そう思ったのよ」
目が潤んでいるように見えた。それがひどく恐ろしく感じられて、再びカメラの世界にのめり込もうとファインダーを覗いた。
「そうやって誤魔化して、カメラを覗く……そんなきみが私は好きだった」
その言葉を攫うように夏風はカーテンを揺らした。
目の前の景色がより色づいていく。それは確かに、僕には勿体ないほどきれいで美しい世界だった。
「もう夢中になったあの子はいないのよ。それでも、わたしはダメかしら」
夏服の袖を掴まれる。
袖から伝わる微かな震えは僕の心を黒く染めていった。
僕はカメラをそっと下ろして、下校していく生徒たちを見つめた。男女は楽しそうに何か話しているようだ。その姿が小さくなっていき、校門を過ぎるともうその姿は見えなくなってしまった。
「ごめん……」
やっと紡ぎだせた言葉はそんなありふれたものだった。
彼女の手が離れていく。
「そうよね」
雲が赤く染まる空を覆っていき、教室は薄暗くなる。光を帯びていた彼女の横顔は翳り、そして一筋の雫がこぼれた。
がたんと後方から音がする。
僕は思わず身構える。教室のドアが半開きになっていた。誰かが廊下を駆けていく音がする。その足音が遠のいていき、部活動の掛け声とともに消えていった。
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