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震える私の前で清少納言が爽やかに微笑んでいる。香壺から立ち上る芳香にぴったりの、愛らしい女性だ。
彼女がここにいるはずない。あやかしかとも疑ったが、物の怪とは思えない圧倒的な幸福感が彼女を包んでいる。冬の中でも決して折れない、温かな春の芽のようなぬくもりを感じた。
彼女に比べて、急に自分が貧相に思えた。急に、負けたくない苛立たしい気持ちが胸を苦しくさせる。
「清少納言、あなたには迷惑しているの。宮中であなたと比べられるのは本当に不愉快だわ」
怒りを含んだ声が出た。
漢文も間違いだらけで知識も浅い、上っ面ばかりきらきらしい清少納言。そんな女性に教養ある自分が翻弄されることが腹立たしい。
それでも自分は彼女に負けてしまう。どうしても勝てない一点がある。
わたしは宮中の人々が怖いのだ。
はなやかな見かけと裏腹に、着飾ったどんな女御も公家も心の内は違う。
冷たい宮中で、真面目な自分は清少納言のように明るく振る舞えない。
宮仕えを始めて数ヶ月。ずっと抑えていた感情が、雪崩を起こしそうだった。
「清少納言はもっと気が利いていたとか、粋だったとか人が言うのよ。うんざりするわ。私は私で、あなたとは違うのに……!」
宮仕えの腹立たしさが、一気に相手に向かったが、清少納言は動じなかった。
「紫式部、私は身近な幸せを大切にしていただけ。あなたはあなたの生き方をなさいな。私はそれを見たいわ」
そして彼女は春の花が咲くように笑った。
「私達は、人に決められた通りになんか生きられないわ。そうじゃなくて?」
はっと胸をつかれるような思いがした。
私は人からどう思われるかばかり気になっていた。
自分はどう生きたいのだろう。
心がしびれて震えるような衝撃が走る。
「ああ」
私は膝からくずおれるように陥落した。相手の胸に飛び込み清少納言に抱きつく。春の日差しのような香りがした。
「清少納言、私を手放さないで」
彼女を見上げる私の瞳は涙に濡れていた。広く冷たい宮中の中、ずっと心細かった。彼女は私の頭を手でなぜ、黒髪を手ですく。
「私の可愛い人」
月の光が雲に陰るとき、彼女からの口づけが降ってきた。私は瞳を閉じて、それを受け入れる。腕の中に抱きしめられると、早い春の香りの中で、めまいがするような幸福感に包まれた。
これが夢ならば、どうかこのまま醒めないで……。
そう願いながら、強く決意をした。
私は宮中で生きる。ここでだって物語の続きを書いてみせる。そしていつか必ずあなたに会いにゆく。
本当の清少納言に……。
京の宮中には呪いがかかっている。
人を恋に堕とす香りの呪いが。
あなたの香りはどんな殿方よりも私を狂わせる。
(完)
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