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京の宮中には呪いがかかっている。
人を恋に堕とす香りの呪いが……。
ときは平安、京の宮中内裏。
早い春の小雨は霧のように静かに降った。雨は内裏の庭も、屋敷の檜皮葺の屋根も、外の世界の何もかもをしっとりと濡らしている。
雨音もしない中で、私…紫式部はひとりで自らの局にいた。
時刻は夜。
薄暗い局の中では高燈台の小さな明かりが、あたりをほのかに照らしている。
風が吹くたびに、庭の木々の揺れるさざめきや、降ろした御格子のきしむ音が鳴っていた。
「冷たい風だわ……」
分厚い十二単を着ていても、夜の宮中は寒々しい。
手元にあるつややかな白磁の香壺の灰の中に炭を埋める。
炭火のほのかなぬくもりの中で、ゆっくりと特徴のある芳香が香壺から立ち上ってきた。
それは秘密裏に手に入れた、清少納言の香りだった。
彼女はすでに宮中にはいない。残された伝説的な話と、枕草子だけが彼女を語る。実際に会ってみたい……だが会えない。こういう気持ちを、恋しいというのだろうか。
局に漂うのは、花の香を中心としていて、華やかでみずみずしい香りだった。残り香はすっと爽やかで、嫌味を感じさせない。
雅なのにどこかほっとする。
会ったことがない相手の香を密かに焚くなんて、まるで片思いの相手を恋い慕っているよう。
「これではまるで……恋だわ」
自分の愚かしさにため息をつき、私はひとりごちた。
ふと隙間風が吹いて、間仕切りの几帳と、高燈台の炎が揺れた。
直感的に人の気配を感じて、まさかとおもいつつ近くの遣戸を開ける。
ぽっかり空いた暗闇から、夜の冷たい風が頬を撫ぜた。
外の雨は止み、不吉なほど燃え上がるような満月が出ている。
冬枯れた庭や簀子縁に繋がる、磨かれた欄干を、月光が青白く照らしていた。
すぐ側の簀子縁には、初めて見る、一人の女性が立っていた。淡い萌黄色の女房装束の裳唐衣を身にまとっている。
花が咲いたような美貌と黒髪。凛としたたたずまい。春の陽射しを思わせる微笑みと温かな黒の瞳が、局の前に立ちすくむ私を見つめていた。
震えながら息を呑んだ。
「清少納言……どうしてここに」
相手が名乗らなくても香りで分かる。まぎれもなく彼女がそこに立っていた。
私は震える声でつぶやいた。
「これは幻なの、それとも夢なの……?」
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