〜第一部〜 時は遡ること数分前

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     ✾  今回の学校泊りで特別に何席か設えられた自習スペースで、学習に勤しんでいた緋衣(れい)は、参考書から顔を上げゆっくり体育館の中に視線を巡らすと、ふと微笑んだ。  涼姉さんは退席してからずいぶん時間が経っているようだが、大丈夫だろうか? 体育館の中には数人の四人の生徒と一人の教師がいる。  葵が向かいの机で本を読んでいて、委員長の雪江とその友人の小百合は床に座布団を敷いてお喋りに興じている。そして董子はというと腹筋背筋スクワットをひたすら繰り返していた。彼女はたしか陸上部だったか、今年はインハイに出場すると息巻いているようだ。  そして体育館で監督をしているはずの教師は何をやっているのかというと、玲と一つ挟んだ隣の机に突っ伏して眠りこけていた。  海棠正吾(しょうご)教諭だ。  普段は竹刀を持って――もちろん実際には持っていないが持って良いと云ったら間違いなく持ちたがるだろう――校則違反の生徒をビシバシ指導しているタイプの体育系教師だが、いざこうした緊急事態下で裏側を見ると何と情けない。  廊下からホールクロックの鐘の音が聞こえてくる。  玲は生まれつき耳がとても良い、だからここにいてもホールクロックの音を十分に聞くことができるが、海棠を叩き起こすには明らかに不十分な音量だ。それどころか葵の耳にも聞こえていないだろう。  もう六時か……。それにしても妙なものだ――と玲は思う。  嵐で隔絶された女学園。これで電話線まで切れたら完全なクローズドサークル。姉さんが聞いたら喜びそうだ。  もっとも、横文字嫌いなあの人なら嵐の山荘とでも表現するのだろうが……。    玲と涼は奇妙な姉妹だった。  父は浮気性の男だ。その最悪の(へき)は婿養子として母と結婚しても変わることはなかった。玲は母の血を引いていない。物心ついた時から涼と玲の扱いは天と地ほどに差があった。涼が部屋を与えられても、玲は使用人たちと雑魚寝をする日々。同じ食事の席に着くことすら赦されていない。  それは父が死んだ日からさらに激化していった。  私は父が外でつくった子供なのだ――、幼心ながらそれは十分に理解していた。  だからといって玲は姉を疎まない。妬むことも一切しなかった。涼がたまに浮かべる、あの冷笑とも侮蔑ともつかない冷たい微笑み。玲はあの笑い方がどうしても好きになれなかった。  あんな風に笑うようになってしまうならば、このままの方がいい。 「さてと」  そう云ってやりかけの参考書に視線を落とす。隣では相変わらず海棠が不快な(いびき)をかいているが、集中すれば気にならない。  雪江が立ち上がり、長い黒髪を揺らしながら体育館を出ていく。葵は本を一冊読み終わったのかあくびをしながらゆっくり伸びをしていた。董子は一通りメニューを終えたようで、ペタンと床に座り込みペットボトルの水を飲んでいる。 「ね、ね。何やってるの?」  顔を上げてみると、葵が私の参考書を覗き込んで首をかしげていた。 「数学、苦手だから」  玲は自分が人付き合いは苦手な方だとは思わないが、面倒くさいのでいつもぶっきらぼうに答えるようにしている。それを苦手というのかもしれないのだが――。 「へえ~、偉いね。私なんて私文って決めちゃってるから数学なんて一切やらないや。玲も文系だよね? 国立狙い?」 「私は高校の授業くらい満遍なくやっておきたいと思っているだけだよ。行けることなら国立に行きたいし……」  玲は面を伏せた。それは嘘だ。  いくらお金があったって、母は玲が私大に進学することなど赦さないだろうから。  そんなことをここで説明するのは労力の無駄だ。噓も方便というまさにぴったりな熟語がある。 「じゃ、頑張ってね。私は仮眠を取るよ。海棠と並んで寝るのは癪だけど、眠いから」  彼女は玲にそう云うと、さっさと向こうの机に戻っていった。  自分が自由ではない、と感じることは少ない。だが一般的に見て私は自由ではないのだろう――と玲は思う。それならそれでいい。ただもう少しだけ大きくなっていつか涼を見返すのだ。  その暗く大きい野望だけが玲を動かす原動力だった。    再び、ホールクロックの鐘の音が、廊下の方から聞こえてきた。
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