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〜第二部〜 各人のアリバイが調査される
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薄暗い蛍光灯が儚げに明滅する。虫が当たるピン、ピンという音だけが幽かに聞こえる。照明はあまりに暗すぎて、月さえない真っ暗な夜では懐中電灯なしでは先が見通せないほどだ。目が慣れてくるまでそれがなんであるか、いったい何が起こったのかを理性的に判断するのは難しかった。
やがて足早に駆けてくる足音が一つ聞こえてきた。
「大丈夫かね? 君は……、たしか向日君だったかな。いったい何が……」
葵の元に最初に駆け付けたのは廊下を歩いていた岩梨校長だった。
彼はいつものように威厳に満ちた声でそう云うが、葵の視線の先にあるものを見て、絶句する。
「なんてことだ……、ああ……」
彼は元々蒼白く不健康そうにこけた顔をさらに蒼くし悄然とたたずむ。校長の持っていた懐中電灯が血に染まった涼の身体を照らし出し、葵は思わず目を背けた。
後ろの方からパタパタパタ……、といくつもの足音が近づいてくる。
「葵‼ 大丈夫か⁉」
そう云って走って来る董子を先頭に、雪江と小百合、そして海棠先生が走って来るのが座り込んだ葵でも見ることができた。
「し、死んでいるんですよね? 校長先生……」
葵は岩梨校長を見上げて問う。
「あ、ああ。あの傷では生きてはいないだろうな。おおい‼ 海棠くん。君が脈を見たまえ」
校長はこほん、と咳ばらいをするとわざとらしいほど取り繕った声で、目を真っ赤にした海棠に指示を飛ばした。
「ああ、なんてこと。涼……」
小百合は床に崩れ落ちる。今更ながら鉄錆のような、ものすごく不快なにおいが鼻を衝いて葵は涼の身体から顔を背けた。海棠は三度ほど悲しげに首を横に振り、
「もう手遅れですね――、おそらくついさっき殺害されたばかり、ざっと死後十五分~三十分程度といった様子でしょうか」
海棠がゆっくりと立ち上がって顔を上げると、校長は、
「海棠君‼ なぜそんな詳しいことがわかるのかね⁉ 君は教育学部卒だろう?」
彼は激高したように海棠に詰め寄る。
「両親が外科医でしてね。紫斑や死後硬直についてのいちおうの知識はあります。どちらもほとんど現れていないことから、死亡推定時刻を広く見積もってもまだ一時間は経っていないでしょう」
海棠はそんな様子の岩梨校長をどうするでもなく無視し、検分の結果を報告する。彼はワイシャツの第二ボタンを外し、袖をまくり上げる。平然としているようだが、葵には十分、彼の困惑が伝わって来た。
そしてそんなことをしていると、廊下の奥の方から少し遅れて体育館から玲もやって来た。
「姉さん……――」
彼女の呟きに皆の視線が集まる。玲は驚嘆よりも悲しげに、無残にも鋭利な刃物が付きたてられている姉の身体を見下ろした。
そして「どうして……」と絞り出すように云う。小百合を介抱していた雪江だったが少し回復したのを見、すっくと立ち上がって云った。
「先生、この暗い廊下に集っているのはあまり適切ではありません。玲さんには悪いけれど、警察が調査することも考えると、わたしたちがこれ以上現場を荒らしてしまうのはきっと喜ばしいことではないはずです。体育館に一時帰り、警察に連絡することを提言します」
彼女は毅然と云い放った。海棠はそれに賛同するように校長の方を見遣り、
「そうですよ校長先生。古正の云う通りです。これは事故や自殺じゃない。殺人事件である可能性が極めて高いんです‼ 生徒たちの安全を確保し、一刻も早い解決を……」
岩梨校長の顔に青筋が浮かぶ、やがて細かに震え始めると、
「そんなことはわかっとる‼」
海棠を一喝した。
「そんなことは常識だ。だがそれからどうする? 殺人犯がいるかもしれないというのに生徒たちを体育館で雑魚寝させるつもりなのか、君は‼」
先ほどまでの蒼い顔はどこに行ったのか、彼はまるで鬼のような形相で真っ赤に上気し怒鳴り散らす。
「だいたい君はね‼ 発言が無責任すぎるのだよ。体育館に行って、そこで殺人犯が待ち構えていたらどうするのかね? 我々には武器がない。もし向こうが武器を構えでもしていたら皆殺しになってしまうのだぞ‼」
ゼイゼイ……と息が上がるまで怒鳴った彼はそのままへなへなと崩れ落ち、
「私はどうすればいい……、今年で無事定年なんだぞ、学内で殺人事件が発生したなんてそれこそ監督責任じゃないか。私の老後をどうしてくれる……」
と、しまいには泣き出す始末。
葵は壁伝いにゆっくり立ち上がった。まだ胸の悪い臭いは強烈に漂っており、云い表せない不快感が未だに残っているが、だいぶ回復することができただろう。
葵はふと顔を上げ、姉のそばに座り込む玲を見る。
彼女は涼の腕に縋り付き、手から何かを取り出そうとしていた。
「おい、玲君‼ 何をやっている⁉」
海棠が慌てて引き剝がそうとするが、もうすでにその何かは涼から玲の掌へと移っていた。
「何するんですか⁉」
玲は心外だとでも云うようにキッと海棠を睨みつける。
「何をするんだ、はこちらのセリフだ‼ 涼君から何を奪った⁉」
海棠が激高したように挑みかかると、彼女は平然と、「これですよ」と云って銀色で光沢のある丸みを帯びた塊を海棠に投げてよこした。
「なんだこれは……?」
海棠が呆けたようにその物体を眺めていると、玲は再びそれを海棠の手から奪い取り物体から突き出た突起を無造作に押し込む。
カチリ、という音がして物体の蓋が綺麗に開いた。
「懐中時計。姉さんが好んで使っていたんです。それを握りしめていたようですね」
玲は思ったよりもずっと平然としていて、葵から見ても意外だった。彼女は自らの茶味がかった滑らかなボブヘアをひと撫ですると、皆を見回した。
ここに来て、まだ一度も口を開いていなかった董子がふと、
「それってダイイングメッセージってやつじゃね? よくドラマとかでやっているやつだよ」
玲は董子を見つめ、
「そうかもしれない。だけどそう考えるのは早計だと思うな」
と静かな口調で続けた。
「どうしてだよ?」
董子は玲に食ってかかる。いや、どちらかというと好奇心が勝ってしまい、思わず訊ねてしまっているといった方が適切かもしれない。
「まず考えられるのが、これが犯人の偽装であるということ。そしてこの懐中時計が姉さんの持ち物であるということ――」
皆が首をかしげる。それを代弁するように葵が、
「なんで涼さんの持ち物だとダイイングメッセージだと思えない理由になるの?」
すると、玲はすっと面を上げ、
「別に私もこれがダイイングメッセージではないと云っているわけじゃあないよ。ただそのほかの可能性もあるってことを知ってほしくてね。
だって考えてもみなよ。姉さんの持ち物である懐中時計。これによって犯人を導き出せる? この中に懐中時計を常用している人物は――私が知る限り――一人もいない。ということはこのダイイングメッセージは不確かであるということだ。暗号という解釈もあるけれど、普通刺されてからそんなことを考える余裕はないからね」
皆が頷く。そして玲は最後に、
「雪江の云う通りだよ。ここは暗いし臭いが酷い。早く体育館に行ってしまおう。明るい方が落ち着いて話ができるしね」
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