〜第三部〜 華の名前(解決編)

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〜第三部〜 華の名前(解決編)

   ✾  部屋に入るや否や、砂糖なのか醤油なのかよくわからない独特の調味料のにおいが鼻孔をついた。  体育館のほど近くにある家庭科準備室。  東の窓から常夜灯が差し込んでいる埃っぽい部屋だ。入口付近には冷蔵庫が三台ほど連なっており、表面には何らかの紙がマグネットでたくさん留められていた。中央の大きめの長机には放置された調味料の瓶とカップやボウルなどが所狭しと並んでいる。  逆光で表情は見えないが、一人の少女が窓によりかかっていた。 「玲さん」  私がそう呼びかけると、少女――緋衣玲はこちらを向いた。 「来てくれたか、よかった」  そう云いながら胸元のリボンを整える。そして小さくあくびをした。 「眠いね。さすがにこの時間だと」  彼女は気さくな笑みを浮かべながらゆっくりと顔を上げた。  壁にかかったデジタル時計は無機質に零時五十分を指している。窓の外では一度は去ったはずの嵐が引き返してきたのか、暴風が吹き荒れ雨が不規則なノイズを作っている。 「ええ、健康にはよくないでしょうね。わたしも眠いです。それで、こんな時間に何の用ですか?」  見つめると案の定、玲は挑戦的な表情になり見つめ返してくる。二重まぶたの奥の瞳は鳶色で、吸い込まれるように深かった。 「そんなことよりも。付いて来ている人はいないよね。私はもう疲れた。早めに終わらせてみんなと一緒に眠りたい」  彼女はもう一回、大きなあくびを発する。 「他の人に睡眠薬を盛ったのは玲さんだったんですよね」  私がそう云って彼女を見遣ると、玲は少し照れたような顔をして「バレてたかあ」と云って頭を掻く。 「ええ、眠気覚ましと称して珈琲を淹れたのは玲さん一人ですもの。そしてわたしとあなたは珈琲に口をつけなかった。  わたしが珈琲を飲めないのを知っていたんでしょう?」  そう問いかけると、玲は自分のした悪戯を自慢する子供のように、 「もちろんだよ、」  と胸を張った。私はため息をつく。 「はぐらかすのはもうやめにしましょう。あなたは何故そんな妙な奸計を弄してまでわたしを呼び出したのですか?」 「あなたから話してほしくてね」  彼女は意味ありげに微笑む。 「……何を、ですか?」  私は息を呑んで、玲に聞こえないよう深呼吸を済ませてから、訊く。 「何をいまさら。あなたが私の姉を殺したことについてに決まっている」 「……」 「そうなんでしょ?   クラス委員の、――さん」 「どういうことか、わからないですね」  私――古正雪江の柔和な微笑は、そう云われようと少しも崩れなかった、と思う。 「わたしが涼さんを殺したと、どうしてそう思うのですか?」  私が一歩前に出て玲に問いかけると、彼女はゆっくりとした歩調でこちらの方に歩み寄ってくる。 「あなたはミスを犯してしまった」  常夜灯を背にしたまま、彼女は吐き出すようにそう云った。  玲の声は先ほどのアリバイ調査のときのように生き生きとしてはおらず、ただ淡々と事実のみを語る、そんな冷たい声音だった。  私は笑みを崩さぬよう気を付けながら彼女の方を見遣る。 「根拠、だったね。先ほどのアリバイ調査の時、。それも何かを誤魔化すことを目的とした――。  云うならばそれが根拠かな。あれは大きなミスだったね。  それさえなければ私はあなたの犯行だと断定することはできなかったと思う」  私は沈黙で返す。  やがて、ポツリと「それで?」と震える声で呟いた。 「私はあなたにこう問うた〝それでなんだけどトイレに行った時とか、不審な音を聞いたりはしていないかな?〟と。  覚えているよね。それに対してなんと答えたか――」  たしか私はこう返したはずだ。  ――ないですね。わたしがトイレに入っている時も出た後も、雨や風の音が激しくて何も聞こえませんでしたもの。寄り道もしなかったので詳しいことはわかりません。と――。  私が黙ったままでいるのを見かねたのか、玲は突然お道化た口調に変え、 「気が付かないかな、たしかあなたがトイレにいたとされる時刻はの間だったよね?」  と確認する。何度も何度も頭の中で反芻した通り、 「ええ、たしかにそうでした。それからトイレの扉の前で携帯が繋がらないか確かめていたんです」  私は断言した。  だが、そう云い切ってしまったその瞬間、自らの犯した決定的なミスを自覚した。  まさか――。  全身の血液がつぅっと下降行くのがわかる。  私の表情の変化を見て取ったのか玲は逆光の中でニヤリと笑い、 「おかしいなあ。  」  ――ゴーン、ゴーン、ゴーン……、…………。    ――……。    私は瞑目して、心を落ち着けるために「ふうっ」と息を吐いた。  玲は私の様子に構わずに続ける。声の調子は先ほどの冷徹に戻っていた。顔面には張り付いたかような無表情があるだけだった。 「たしかにあの鐘の音はとても小さい。防火扉の付いた体育館の中にいたら、相当耳が良くないと聞こえない。  でもトイレの中なら話は別だよ。現に小百合は音のあまりのうるささにいら立って、蹴り壊してしまったほどだからね。トイレの中にましてや外に立っていて聞こえなかった?  。  。  ではなぜ嘘をつくのか、あなたはあの時間トイレにいなかった。あの時あなたはナイフを握りしめ、姉の身体に突き立てていたのだから――」  玲は人差し指を雪江に突きつけ、云い切る。  雪江はゆっくりと目を開け、やがて虚ろな顔で呟いた。 「わたしの負けね」  玲は項垂れる雪江の肩に手を置き、そっと囁く。 「やっと認めてくれたね、雪江。いや雪江さん」 「その呼び方はやめてください‼  あなたの姉は緋衣涼ただ一人、わたしなど、ただの使用人に過ぎないのですから」  雪江はその手を激しい語調とともに素早く払いのけた。  古正雪江……、古正は養父(ちち)の性だ。  養父の名前は古正蓮司(れんじ)。  しかし、彼はもう一つの名を持っていた、彼のまたの名を、緋衣蓮司という。玲の、そして涼の実の父親である人物。  緋衣家に涼を生まれてからすぐに孤児院から引き取って来られたのが、――私だ。  涼の母は手厳しい人物だった。養父が死んでから私に対する風当たりが強くなるのは当然の成り行きだった。 「雪江姉さん……」  玲は茫然と雪江を見つめる。  玲はそんな私を心から理解してくれている数少ない友人の一人だと云える人だ。養父が愛人との間に作らせた子である玲もまた、緋衣家内では良い立場とは言えなかった。  玲は険しい表情になり、 「その時、涼姉さんを殺したその時、あいつに何を云われた?   何をされた?」  と語気を強めて問う。 「云えません、わたしはただの殺人犯なのです。これ以上、緋衣の名を汚すことはできません。  わたしは私怨で涼様を殺したんです」 「たしかにあの人は魔女だった。私から見ても魔女だった。私もあいつにお前は母の子ではないと、幼い時から云われ散々なじられた。  殺したくなった時も、あった。  もう一度聞くよ。涼姉さんを殺した時、何があったの?」  玲の瞳は優しかった。雪江は再びそっと瞑目すると、 「友人として聞かせてほしい」  玲はいつものように少し冷めた口調。  でも私には、その裏で多くの感情が渦巻いていることが感じられた。私は息を整えると、俯いたまま話始める。 「涼様に手紙を渡されたのです。十八時十五分、廊下の先で待っている、誰にも告げずひとりで来なさい。と。  文面はこれだけでした。  わたしは怖かった。あの方に何かされるのではないかと。玲さんも知っているはずです。涼様がわたしの荷物に虫を放り込んだり、食べ物に石を仕込んだり、わたしはすべて知っていました。  だから怖かったのです」  玲は黙って聞いていた。じっと何かを堪えるような瞳には力が入り震えている。私はそのまま続ける。 「約束の時間、わたしは約束の通りひとりでその場に行きました。涼様は後ろを向いたまま、ポケットに手を入れて立っていました。  わたしが声をかけようか考えあぐねていると、涼様は突然わたしの方を振り返り、ナイフを振りかざして襲って来たのです。  これではただの殺人犯の言い逃れにしか聞こえないことでしょう。  しかしこれは事実なのです。涼様はもはや気がふれていたのかもしれません。わたしは必死に抵抗しました。助けを呼ぶという考えは浮かびませんでした。気が付いたときには血にまみれたナイフが涼様に突き立てられ、彼女はそのまま床に崩れ落ちました。それだけです。  ただ、それだけ……」 「それじゃあ正当防衛じゃないか‼」  玲は声を張り上げた。 「いいえ‼ わたしの殺人は決して正当防衛にはならないでしょう‼」 「そんな……」 「玲さんが一番知っているはずです。緋衣家の力を。警察や検察をほんの少し動かすことなど、造作もない」 「私がそんなことさせないよ‼ 私だって緋衣家の――」  玲がそこまで云った時、私はつつっと前に出て吐息がかかるほどの距離まで近づいた。 「玲さん、お忘れではないですか?   緋衣家はもともと涼様の母上である紀美子(きみこ)様が代々受け継いできた家系。旦那様はその婿養子としてこの家に入りました。  つまり、緋衣家とは血の繋がりがない玲さんは今まで同じく蓮司様の血を引く涼様の手前追い出されることはなかったものの涼様亡き後、緋衣家にはいられない。  あなたはこの事件で緋衣家の権威そのものを失ったのです。  涼様を殺した。いや、あなたと緋衣家との命綱を切ったわたしが憎いですか? わたしはあなたに殺されてもかまわない、いまやそうとまで思っています」  私はかぶりを振った。 「あんな家こっちから願い下げだね。私が勘当されるなら、それでいい。  でも雪江が殺人罪で裁かれるのは不正だよ‼」  玲はあくまで首を縦に振らなかった。  彼女は昔から正義感の強い子だった。正しくないことは絶対に赦さない。だからこそ、余計に緋衣家では疎ましがられる。  私は髪を掻き上げた。 「もしかすると涼様は、こうなることがわかっていてわたしを襲ったのかもしれません。  わたしには殺人の罪を、玲さんには勘当の仕打ちを、わたしはあの人を刺した時、これで解放されると安堵しました。  でも、大きなそれは間違いだった。  この殺人劇の勝者は、刺したわたしでも、それを解いたあなたでもない。  わたしたちの日常にある細やかな幸せを、横から入って来た涼様は完膚なきまで破壊しつくしたのです。  勝者はたった一人、涼様ただ一人なのです‼」 「雪江……、でも声を上げれば、メディアに情報を流せば、殺人罪で裁かれることはない‼」  玲は頑なだった。「私はこんなの認めない‼」とすごい剣幕でまくしたてる。 「そうしたら、わたしは殺されるでしょうね――。緋衣家の力は玲さんが思っているよりもずっと強いのですから――。玲さんの方にも危害が加わってしまう」 「そんな――」  玲は絶句した。 「これからどうしますか? わたしを警察に引き渡しに行きますか?」  私は微笑む。  いつも通り、もう十七年も付き合ってきた、偽りの笑みを浮かべる。  玲は悲しげに私を一瞥した。 「それじゃあ涼の思惑通りだよ。私は昔からあいつが嫌いだった。表面上は普通にしていて、内心では人を蔑んでいるあいつが大嫌いだった。  だから、あいつの考えた通りになるのは、赦せない」  彼女の瞳には強い意志が宿っていた。 「玲さん……、でもわたしたちはどうしようものないのです。わたしたちには、それに抗う術がもう残されていないのです」  「諦めましょう」と私は云った。 「所詮わたしたちは一人の人、涼様の手の中からは逃れられない」  もういい、殺されるならば仕方がない。裁かれるなら仕方がない。  それが私の最後の矜持なのかもしれない。 「逃げよう」  玲は云った。  先ほどまでの正義感にあふれた言葉とは違った意味で、あまりに力強く、彼女は云った。 「今の私たちにどれだけできるかわからない。でも無抵抗に潰されるのだけはだめだよ。  緋衣家が強大なら、このまま罪を受け入れても雪江を赦さないかもしれない。私の存在自体が邪魔になるかもしれない。  そうなるんだったら、声を上げるのも上げないのも一緒だよ。  だから――、二人で逃げよう」  嵐の音は聞こえなかった。  気づくと私の頬に一筋の雫が流れる。  探偵と犯人。奇妙な取り合わせだな、とふと思う。私は白で、玲は赤。相反する二つの色であるというのに、どうしてもそれに惹かれてしまう。  私はその時、ふと自らが刺した涼の顔が思い浮かんだ。きっと気のせいだろう。  玲は優しく、私を抱きしめた。
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