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飛び降り自殺と、ソラ
―僕は知らない―
「君はきっと知らないだろうね」
どこかで誰かが死んだとしても、何も知らないんだろうね。目の前に立つ、一人の少年が言った。
学校の屋上を吹き抜ける風は、初夏のように生暖かく、そのくせ虫の声ひとつしない。
奇妙な夜は、妖魅を呼ぶ。だからぼくは、この少年を信用しない。話はいつだって、半分だけ聞いておけばいいのさ。もう半分は、子守唄程度にね。
「例えば、つい昨日、ここを飛び降りた少年がいたとか」
少年は夜空を指してそう言う。
「それがぼくだったりして」
「縁起でもないこと、言うなよ」
「じゃあぼくがその瞬間を語ってみせたら?」
「……知らないよ」
意味不明な話が、ぼくの頭の中に蔓延る。それがずるずると蔦を伸ばし、いたるところに絡まって、お手上げになる前に上手に刈り取らなくちゃいけない。
少年はぼくの杞憂になんてお構い無しに、嘘とも知れない話を続ける。
「ローラースケートを履いて、空を仰ぐんだ。ほら、こうやって」
「やめろよ」
死んだ人の真似をする少年の腕を掴む。掴みどころのない、やわらかい果実を掴んだ感覚。するとぼくの脳裏に、すっかり腐りきってしまった死体が浮かび上がり……ああ、ゾッとする。人間の腐りきった死体なん――いや、そもそも動物の死体だって見たことがないのに。
顔を上げると、少年の綺麗な顔があった。目が弓なりに曲がって、にこりと笑う。
「信じた?」
「な、何を」
「ぼくのこと、狂ってると思った?あはは、図星?ねぇ、狂ってるのはどっちだと思う、近江くん」
「何で名前を――」
「どうしてぼくが知らないと思ったの?君はほんっとにおかしいね」
頭の中に、この少年が植えた蔦が自由勝手に触手を伸ばす。あっと言う間にそれは、もうどうにもできなくなってしまっていた。いやだ。ぼくの中を侵蝕しないで。
この感覚、幾度となく味わってきたはずなのに。よく知ってるはずなのに。いやだ。
「もうこんなわけのわからないところにいるの、うんざりだよね。ぼくと一緒に来ない?」
「何を言ってるんだ?」
「君はわかってるでしょ?ここが普通じゃないって」
「普通じゃないのは君だ」
少年は驚いたようにぼくを見た。見開かれた瞳に、気怠い夜の色が入り込む。
「何も知らないくせに!」
夜を拒むように、その瞳が閉じられる。それは単なる瞬きのはずなのに、眠りにつくときのようにゆっくりとしたもののように感じられた。
「あ」
ふわり、と少年が風に舞った。ローラースケートを履いて、心底嬉しそうに。けれど、どこか悲しそうに。とても一言では言い表せない、沢山の感情を抱き抱えたその瞳は、空を見ていた。雲ひとつない晴天の空を見ていた。驚くほど、真っ青な空を。
ぼくは咄嗟に手摺を掴み、思わず身を乗り出したけれど、もう彼はいなかった。ただ、空はいつまでも、どこまでも青く広がっていて、目を見張るほど美しかった。
いったいいつの間に夜が明けたのか、ぼくは知らない。
それから、ああと吐き出すように呟いて、気づいた。彼はぼくの唯一の理解者だったのかもしれないと。
でも気づいたころにはいつも少し遅くて、今はもう、また逢えますようにと、願うほかなかった。
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