第三章 水族館

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『あの日ね、私は死のうとしていたの』  何気なく発せられた言葉は、とてもシンプルだった。  それなのに僕は言葉の意味を理解できないでいた。  返事すらできない状態だった。 「もし幸生君がバニラを選んでいたら、こうして二人でデートに行くこともなかったかもね」  僕は楽しそうに笑うウミの顔を見た。死のうとしたことなど、ただの冗談だと今にも言い出しそうな雰囲気だった。 「……どうして、死のうと思ったの?」  辛うじてそう訊いた。 「理由は簡単。毎日が不幸の連続だったから」  ウミは僕の目を見た。とても澄み切った目をしていた。 「毎日親と喧嘩して、行きたくもない大学に通って、本当にやりたいこともできなくて、もうどうでもいいやって思えちゃったの」 「それで成瀬は死のうと思った。そして、コンビニにハーゲンダッツを買いに来た」 「そう」  ウミは大きく頷いた。綺麗な黒髪が揺れて、シャンプーの良い匂いが漂う。 「死ぬ前に一番好きなものを食べたいと思ったの。それがハーゲンダッツ」 「他にもっと相応しい食べ物はありそうだけど」 「今だったらアジフライかな」  ウミは笑いながら言った。これから水族館に行くというのに不謹慎だなと僕も苦笑いした。 「でもあの時はハーゲンダッツだった。暑かったってのもあるけどね」 「イチゴとバニラは最後まで悩んでたよね」  ウミは少し考えてから口を開いた。 「実は悩んでないの。私は初めからバニラが食べたかった」 「え?」  予想外の言葉に僕は驚いた。  僕が選んだのはイチゴだった。イチゴという選択は正しかったと今まで思っていた。  しかしウミが本当に食べたかったのはバニラだったのだ。  僕は自分の能天気さ加減に落ち込んだ。その気持ちが顔に出ていたのだろう。 「そんな悲しそうな顔しないで。結果的にはイチゴが正解だったよ」  ウミは僕の肩に手を置き、優しく言った。 「死ぬ決心はとっくにできていると思っていたの。誕生日の夜に家を飛び出して、コンビニに着いたところまではその決心も揺らいではいなかった。でもハーゲンダッツを見たときにね、とても恐くなったの」  死ぬのが恐くない人はいないだろうなと思う。僕だったらコンビニにも辿り着けていないだろう。  そもそも、死のうと思う勇気すら出ないに違いない。 「ハーゲンダッツの小さな容器を見て、これを食べたら自分は死ぬんだと思ったら恐ろしくてしょうがなかった。死への時間が可視化されるみたいで恐かったの」  僕の肩に置いた手に力が込められた。 「だから怖気付いて、幸生君に選択を委ねたの」 「僕がバニラを選んでいたら、ウミは死んでいたの?」 「そのつもりだった。私ね、イチゴ味のアイスが好きじゃないの。偽物のイチゴを食べてるみたいで小さい頃から苦手だった。だから大好きなバニラか、嫌いなイチゴの二択だったってわけ」 「改めてイチゴを選んだ自分を褒めてあげたいよ」 「存分に褒めてあげて」  ウミは肩に乗せていた手を頭の上に持ってきた。二、三度くしゃくしゃと僕の髪を撫でる。 「それに幸生君がイチゴを選んだ理由が素敵だったから」  僕は自分の言葉を思い出していた。頬が少し熱を帯びてくるのを感じた。 「誕生日ケーキにはイチゴが似合うってやつ?」  ウミは目を細めて頷いた。 「自分でもよくあんな恥ずかしいことが言えたと思うよ」  「全然恥ずかしくない。素敵だよ。あの場面で咄嗟に言った台詞では上出来だと思うな」  なんだかむず痒い気持ちだった。圧倒的に褒められ慣れていなかった。  僕は苦し紛れにウミの手の中にある蓋を指差した。 「結局、そのイチゴ味のハーゲンダッツは食べたの?」  ウミは首肯した。 「どうだった?」 「イチゴ味も悪くなかった。幸せの味がしたよ」  ウミは蓋に目を移し、嬉しそうに笑った。           *
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