第三章 水族館

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          *  飼育員の声が会場に響いた。  はきはきと弾むような声でこれから行われるショーの説明をしていく。  プールの中では既にイルカたちがスタンバイしていた。全部で六頭のイルカが鼻先をプールサイドに上げた状態で出番を待っている。  軽快な音楽が流れ始め、飼育員が合図を送ると同時に二頭のイルカが勢いよく泳ぎだした。  二頭の身体が水中に消えたと思った直後、盛大な水しぶきと共に二頭は空中を旋回した。  初めてイルカショーを観たわけではないのに、僕は息をのんで釘付けになっていた。 「すごいね!」  ウミが言った。彼女も魅了されているようだった。 「イルカたち、海は見えたかな」  僕は言う。 「きっと見えたよ。あんなに高くジャンプしたんだもん」  ウミは鞄の中からスケッチブックを取り出した。徐に鉛筆を走らせ始める。  僕はイルカとウミを交互に眺めた。  どちらも夢中になって生きているように思えた。空にジャンプするイルカも必死に鉛筆を動かすウミも、真っすぐに今を生きている。  羨ましかった。  ウミの手が止まった。 「描き終わったの?」 「うん。できた」  ウミはスケッチブックを僕のほうへ傾ける。  白紙の世界で、二頭のイルカが空を飛んでいた。  それは文字通り ”飛んで” いたのだ。  二頭の身体からは羽が生えており、競い合うように海を目指している。 「このイルカは私と幸生君だよ」 「どういうこと?」 「私たちは海を目指さなければいけない。海っていうのは夢のことだよ。夢を諦めた時点で人生は終了なの。だから何があっても夢を追い求めなくちゃいけない」  ショーはクライマックスに差し掛かっていた。一際大きな歓声と拍手が場内に響く。 「そのためには、羽がいる。どんな荒波も雨風も、ものともせずに突き進んでいける強い羽が。夢まで一直線に飛んでいけるための羽が必要なの」  ウミが言い終えたと同時に会場は大歓声に包まれた。  イルカたちが今日一番のジャンプを決めたようだ。  僕の両腕は瞬く間に粟立ってくる。それは歓声のせいなのか、ウミの言葉によるものなのかは分からない。 「僕たちに羽は生えてないの?」 「私たちにはまだ羽が生えていない。だから、私と幸生君が二人で協力して羽を見つけなくちゃいけないの」  ウミは自分が描いたスケッチに目を落とす。 「このイルカたちみたいに、僕たちもどこかに飛んでいける。夢に羽ばたける。そういうこと?」  ウミは顔を上げて、僕の目を見る。  にっこりと微笑み、「そうだね」と言った。  今日見たウミの笑顔の中で最も ”自然な” 笑顔だった。  ウミはよく笑うけれど、その多くがコントロールされた笑顔だった。  心からの笑顔ではなく、笑うべきだと脳が判断したために意図的に表情筋を動かして笑顔のような顔を作っている。  偽物の笑顔だ。  先程の表情は、紛れもなく正真正銘の笑顔だった。  僕は自分がウミの彼氏として少しだけ認められたような気がして嬉しかった。  僕はその瞬間を逃すまいと、反射的にカメラのシャッターを切っていた。  この笑顔を永久に留めておきたいと、僕の本能が手を動かしたみたいだった。  きっとこの写真は僕の宝物になるのだろうなと、直感的に感じていた。  まさかこの写真が遺影に使われるなどとは、露ほどにも考えていなかった。           *
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