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第四章 海
河岸沿いのバス停に辿り着いたときには夕日が沈みかけていた。
僕たちは砂浜に降りられる場所を探して歩き出す。
水族館からの帰り際、彼女が「海が見たい」と言ったことがきっかけだった。
ちょうど干潮の時間帯だったのだろうか、湿った砂浜が長くなだらかに伸びていた。
僕たちは波打ち際ギリギリまで近づいていく。
靴が湿った砂に埋もれる。浸水しないかと不安になったが、ウミはそんなことは気にもせず突き進んでいった。
「私たちの世界は海と隣合ってるのかな? それとも海に包み込まれてるのかな? 幸生君はどう思う?」
「日本は島国だから、やっぱり海に包み込まれているんじゃない?」
「ありきたりな答えはつまんない。私がそんな答えを期待してないのは分かってるでしょ?」
ウミは舌を出した。僕はこめかみを掻く。
「そうだな」
僕はウミが喜びそうな答えを探す。
「海は広い。未知の世界。人間の生きられない場所。近くにあるけど遠い。優しそうで厳しい」
ウミは黙って頷いている。
「海は僕たちの世界そのものでもあり、僕たちの世界と正反対の場所でもある」
「海は私たちのスタートであり、私たちの目指すべき場所」
僕たちは目を合わせて微笑み合った。
僕はウミが求めているものが段々と分かるようになってきた気がする。
彼女は ”ありきたり” を嫌っている。
世間に溢れているありきたりな考えや行動を避けている。僕にはそう見えた。
動物の心理を想像したり、海の存在意義を考えたり、幸せの定義を思案したりするのは、ウミ自身がありきたりな存在になることを恐れているからではないか。
彼女は普通とは違う世界に暮らすことを望んでいる。
違いを認識することで、自分の形を確認している。
ありきたりの世界に飲み込まれて自分の形が変わってしまわないように、いつも心を張りつめて世界を監視している。
僕にウミのパートナーは務まるのだろうか。
彼女は僕に心を開いてくれるだろうか。
夕暮れに照らされる海を眺めていると、そんな不安が胸いっぱいに広がってきた。
「海に漂っていれば、私たちが行くべき場所に連れていってくれそうな気がしない?」
「成瀬はどこに行きたいの?」
「ここ以外の場所」
真っすぐに海を見据えて彼女は言った。
「僕も一緒に行っていいかな?」
少し驚いた顔をしてウミは瞬きをした。不思議なものを見るような目で僕を見る。
「幸生君は本当に物好きだね」
「自分でもそう思うよ」
あははと、僕たちは笑い合った。声を出して笑ったのは久しぶりだった。
「じゃあ私をいろんな所へ連れていって。私たちがいるべき場所が見つかるまで」
「よろこんでウミの付き人になるよ」
僕が初めて ”ウミ” と名前で呼んだのはこのときだ。
自然に口から出ていた。ウミと僕との心の距離がほんの少し縮まったからだと思った。
僕たちはようやく恋人らしくなってきたと能天気に喜んでいたのだ。
だけど、ウミの気持ちは少しも近づいてなどいなかった。
そのことに、僕は後になって気がつく。
全てが取り返しのつかない状態になった後で。
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