第五章 残された者

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 七年が経った。  僕はまた独りになった。  付き合っていた彼女には、「結局一度も私のことを好きになってくれなかったね」と言われた。  僕は何も言わなかった。その通りだと思ったからだ。涙は一滴も出なかった。哀しさよりも申し訳なさが僕の心を満たしていた。だけど僕には彼女に掛けてあげられる言葉は何一つなかった。謝罪の言葉も、言い訳も、感謝の言葉も、すべて彼女を傷つける刃となってしまう。  だから僕は黙った。黙っていることですら彼女の怒りを増幅させてしまうと分かっていて、それでも黙り続けた。早く僕のことを忘れて幸せになってほしい。その思いだけだった。僕には彼女を幸せにすることはできない。  僕はクジラの風鈴を買った。水族館からの帰り道、涙がとめどなく溢れてきた。自分でも驚くほどに、制御できない波が押し寄せてくる。今までその涙をどこに隠していたのかと問いかけたくなる程に、大量に漏れ出してきた。  何に対して泣いているのか分からない。何もかもがどうでもいいと思えた。  僕は夢中になって泣いた。感情を抱く前に涙を流し、垂れてくる鼻水もそのままにして赤ん坊のように泣き続けた。久しぶりに生きている心地がした。  八年が経った。  僕は仕事を辞めた。別れた彼女が同じ職場にいることは、さほど気にならなかったが、何より働く気力というものを失っていたことが原因だった。  僕は旅に出ることにした。幸い使い道のない貯金がいくらか貯まっていた。  電車も車も使わず、目的地も決めず、あてもなく歩き続けた。ただ歩いているだけなのに、足はあっという間に痛みだした。体重を掛ける度に膝はピリピリと痛み、趾にできたマメが「とまれ、とまれ」と脈打つように存在を主張してくる。  背負っているリュックは、時間が経つごとに鉛を載せられていくみたいに重くなった。それでも僕は歩くことをやめなかった。自分の足で、できるだけ遠くに行きたかった。痛みを感じながら、ウミと過ごした街から離れていきたかった。  だけど、体は限界を迎えた。太腿の裏側が一際激しく痛み出し、立つこともままならなくなった。ふくらはぎは頻繁に痙攣を起こし、その度に叫び声を上げそうになる。僕は旅を断念して駅へと向かった。  電車に乗れば、僕が何日もかけて移動した距離をたった数時間でなかったことにされてしまう。どれだけ足掻いたところで何も変えることはできない。電車の窓から流れる景色を見ていると、そのことを痛感されられているようだった。結局僕はスタート地点に逆戻りしている。  僕はマンボウの風鈴を買った。僕にはこれ以外にできることがなかった。  九年が経った。  僕は部屋に閉じこもった。朝から晩までひたすら映画を観て過ごした。  髭も剃らず、ろくな食事も摂らず、一日に5本以上の映画を観た。  いろんな世界を観たかった。見たこともない景色を、聴いたこともない音楽を、出会ったこともない人種を、僕の知らない世界があることを思い知りたかった。  目を見開いてあらゆる映像を頭に流し込んでいく。きっと、僕が探し求めている ”答え” が隠されている。僕は必死だった。  だけど答えなんてどこにもなかった。きっと初めから気がついていた。ウミを失ったあの日から、僕の人生は不完全なものになってしまったのだ。ピースを失ったパズルは、どれだけ努力しても完成することはない。  7月21日。僕はクマノミの風鈴を買った。クマノミは僕が一番好きな魚だった。  とうとう、僕の好きな風鈴を買う年になってしまった。  時計は着々と終わりに向かって秒針を刻み続けていた。
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