11人が本棚に入れています
本棚に追加
第六章 幸せの天秤
到着したのはデパートの一角だった。
ウミの母親と共に、逸る気持ちをなんとか抑えながら駆け付けた。心臓はバクバクと拍動し、全身から汗が噴き出している。
「こっちだ!」
スーツ姿の男性が大きく手を振っている。ウミの父親だった。
僕たちは彼のもとへと駆け寄る。
「ねえあなた、どういうことなの!? ウミは生きてるの!?」
ウミの母親の興奮と焦りで大きくなった声がフロアに響く。
「落ち着くんだ!」
ウミの父親は彼女の肩を両手で支えながら言った。
「ウミは、生きていた。今、ここにいる」
僕は目の前がぐらりと回るような感覚を覚えた。
これは夢なのではないかと、全てを疑いたくなる。
ウミが生きている?
もしそれが本当だとして、僕はいったいどうすればいい?
ウミを失った僕の十年はどうなるのだろうか。
苦しみ、傷つき、ようやく彼女を忘れようと決心できたばかりなのに。
「ウミに、会えますか……」
僕は言った。
彼女に会って、どんな顔をすればよいかも分からなかったが、とにかく会わないわけにはいかなかった。
「少しだけ、待ってくれないか。俺と妻と三人で話をしたい。その後で幸生君もウミと会ってほしい」
父親はきっぱりと言った。当然の主張だった。
自分の子供が十年も行方不明になっていたというのだ。
両親を差し置いて、一年付き合っただけの彼氏が優先されるわけがない。
僕は父親に言われた通り、話が終わるのを待つことにした。
父親と母親はゆっくりと奥の扉の中へ入っていった。
僕はフロアに設置されたベンチに腰掛ける。
深呼吸をしてから顔を上げた。そして息を飲んだ。
辺りには、壁一面に沢山の絵が飾られていた。来た時には全く気がつかなかった。
フロアの入り口に立て看板が置かれている。僕は腰を上げて看板の前に歩み寄った。
『日本初! シェリー展』
看板に貼られたポスターには、そう書かれてあった。
そして、僕は目を見張った。そのポスターが見覚えのあるものだったからだ。
今朝、駅の構内で偶然目に留まり、しばらく立ち止まって眺めていたポスターだった。
まさにこの場所が、個展会場なのだろう。
僕はゆっくりと絵のほうへ歩いていく。
一枚一枚、隠された謎を探すみたいに、確認していった。
展示されている絵はどれも独特な雰囲気を纏っていた。
絶景や花々のような綺麗なものを描いているのではなく、日常にありふれた瞬間をカメラで切り取ったような場面が描写されていた。
『錆びついた自転車に雑草が絡みついている様子』
『コンビニで立ち読みをしている人たちのくたびれた靴』
『晴天の下でビニール傘をさす女子高生』
『逆さ向きの本を読みながら眉間に皺を寄せる老人』
『満面の笑顔でカーテンに鋏を入れる幼い兄弟』
『山積みになったカップラーメンの容器で造られたピラミッド』
『投函口を板で塞がれた郵便ポスト』
異質で直ぐには理解できないような絵が並んでいる。
僕はその一つひとつの意味を探るように時間を掛けて、隅々まで観ていった。
作者は何を伝えたいのだろうか。
僕には世界に対するやるせなさや、不器用な人間の滑稽さを描いているような気がした。
大きな絵があった。
一際目を惹くその絵には、たくさんの動物が描かれている。
ただの動物ではない。
ゾウやカバ、ウサギやライオン、キリンや亀たちの背中には羽が描かれている。それぞれが羽を広げて大空を飛び回っていた。
僕は水族館でウミが描いたイルカの絵を思い出す。あの時の絵の中のイルカたちにも羽が生えていた。
夢を追いかけて羽ばたくイルカたち。
きっとこの絵の動物たちも、幸せを求めて飛び立ったのだろうと思った。
地上には人間が立っている。
人間だけが翼を与えられていなかった。
大空に飛び立った動物たちを見送ることしかできない人間は、まるで僕のようだった。
去っていったウミのことを想い続けながら、何もできない惨めな僕を見ているようで虚しくなった。
展示区画の一番目立つ場所に、ポスターにも載っている海辺の少女の絵があった。
僕はもう一度絵の中の少女に目を凝らす。
その後ろ姿は、見れば見るほど僕の記憶の中のウミと重なっていく。
太陽に向かって浜辺を歩いていく少女は、夢に向かって突き進むウミ自身を象徴しているようだった。
きっとウミは、十年前に姿を消したときの感情をこの絵に描いたのではないか、僕にはそう思えた。
その答えを僕はこれから確認する。
ウミに直接会って、真実を聞き出さなければならなかった。
*
最初のコメントを投稿しよう!