第六章 幸せの天秤

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          *  ドアが開いた。中からウミの父親と母親が出てくる。  二人の表情は硬かったが、明らかな負の感情は読み取れない。当惑と混乱が頭の中の大部分を占めているような、そんな顔だった。  当然と言えば当然だろう。十年も行方をくらませていた娘がある日ひょっこり現れて、冷静に対処できる親がいるとは思えない。 「幸生君、ウミは中の部屋にいる。会ってきてくれるかい?」  父親が言った。  僕は音にならない程細い声で「はい」と答えた。  僕はドアノブを回した。ドアはずっしりと重い。  実際にドアが重たいのか、僕の腕に力が入らないだけなのかは分からない。  きっと後者だ。僕は今までに経験したことがないほど緊張していた。  心臓だけでなく、全身の至るところで拍動を感じることができる。  部屋は眩しくて目を細めてしまうほどに真っ白だった。  白い壁紙と白い天井。部屋の中央には白い机。そして机の脇の椅子に女性が腰かけている。  ――ウミだった。  僕は彼女の顔を真っすぐに見た。ウミも僕の目を見ている。  十年という歳月を感じさせない瑞々しい潤いがウミの瞳には宿っていた。 「久しぶり。さちお君」  ウミの声を聞いただけで涙が溢れてしまいそうだった。  僕は涙を溢さないために声を出す。 「久しぶり。随分と髪が伸びたね」  何を呑気なことを言っているのかと我ながら呆れたが、これ以外の言葉が出てこなかった。 「さちお君は元気だった?」 「うん。ウミはどう? 元気にしてた?」 「元気だったよ……」  沈黙が訪れる。付き合っているときには沈黙が気になるどころか、愛おしい時間にさえ思っていたのに、今は居心地の悪さを感じていた。  学生の僕らはお互いが考えていることを理解していた。それは ”理解したつもりになっていた” だけかもしれないが、少なくとも僕はウミと心の一部を共有しているような安心感に満たされていた。  でも今は、ウミの心の中が少しも見えない。だから僕はこの沈黙に耐えられないのだろう。 「幸生君は、幸せ?」  ウミが突然喋り始めた。 「もう三十歳になったんだよね。二十代は幸せだった?」  微笑を湛えたままウミは言った。  僕の胸はざわめきだす。 「幸せ、ではなかったかな」  辛うじてそう答えた。質問の意図が分からず混乱していた。 「私はね、すごく幸せだった」  ウミは少しだけ笑みを大きくした。 「幸生君と過ごした一年間も楽しかったけど、それよりももっと充実した時間を過ごせたの」  僕の思考は完全に停止した。この部屋のように頭の中は真っ白になった。  どうしてそんなことを言うのかと彼女を詰りたい衝動に駆られるが、責める言葉すらも出てこない。 「私の仏壇があるんだってね。笑っちゃったよ。死んだことにするつもりだったけど、遺影を飾られると変な気持ちがするんだね」  僕は勢いよく椅子から立ち上がると腕を振り上げた。  感情ではなく本能で動いているようだった。  ウミの頬を叩く寸前のところで、僕は動きを止めた。  あと少しでも遅かったらきっと彼女をぶっていた。  僕は振り上げていた腕をだらりと垂らした。 「なんで、ウミが泣くんだよ……」  彼女は瞳から大粒の涙を流していた。  下睫毛で支え切れなくなった雫が、次々とこぼれてくる。  僕の目からも涙が溢れ出した。我慢できるはずがなかった。 「泣きたいのは僕のほうだ。十年間どこで何してたんだよ。誰かに連れ去られたんじゃないかとか、僕のせいで自殺したんじゃないかとか、色々考えても答えはでないし、同じところをぐるぐる回ってたんだ。幸せなはずがないだろ」  僕は嗚咽まじりの声で吐き出した。 「ごめんね……。さちお君、ごめんね……」  ウミは両手で顔を覆いながら何度も謝った。 「幸生君と一緒にたくさんの場所を巡るのが大好きだった。こんな時間がずっと続けばいいと思ってた」 「じゃあどうして――」  僕の言葉を遮って、振り絞るようにウミは訴えた。 「――私は画家になりたかった」           *
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