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グラスの中でくっつき合っていた氷が反発し合うように二つに分かれ、カランカランと音を立てた。
音に促されるように僕はコップに口をつけ麦茶を飲む。冷たい感覚が喉を下っていき、体温が少し下がったような気がした。
駅からこの家までは1キロもないというのに全身は汗だくになっていた。
喪服の上着を脱ぎ、ソファーの肘掛にかけた。背もたれに体を預けながら、僕は部屋の中をぐるりと見回す。部屋の模様は去年と殆ど変わりないようだった。
僕の視線が止まった。
リビングの隣は六畳ほどの居間になっている。僕の視線は居間の隅に置かれている仏壇に向けられていた。色とりどりの花が左右に飾られている。
その中央には、花よりも華やかに笑うウミの顔があった。
「わざわざ喪服じゃなくてもいいのよ」
お盆の上にコーヒーとシュークリームを乗せてウミの母親は戻ってきた。
「なんだかこの格好が一番しっくりくるというか」
僕は出されたコーヒーに手を伸ばした。
「Tシャツで来たりしたらウミに怒られそうな気がして」
母親は無言で微笑んでいた。
「最近ね、やっとあの子のことを思い出して笑えるようになったの」
僕は黙っていた。子供を無くした母親が語りたいことは、僕の想像できないほど沢山あるに違いない。
「あの子がいなくなったのは全部私のせいだと思っていたし、その気持ちは今も変わらないの。でもね、さちお君と一緒にいた1年間だけは、あの子も幸せだっただろうなって思うのよ」
それならば何故ウミは僕の前からも姿を消したのだろうか。
僕といることが幸せならば、僕と離れ離れになることを彼女が望むわけがなかった。だけどこの思いは口にしなかった。
「あの子が高校に上がってからは毎日言い争いをしていたわ。よくある反抗期だと思っていたけど、大学に入ってからもますます喧嘩が増えてね」
母親はどこか遠くを眺めているようだった。
「結局私は、あの子を自分の思い通りにしたかっただけなのよね。あの子が本当にやりたいことも知らずに無理やり大学に行かせて、我慢させ続けてしまった」
母親はしばらく目を閉じていた。長い睫毛が涙袋を包み込んでいる。
一瞬母親の顔がウミの顔と重なり、言いようのない胸の苦しみを覚えた。
「でもね、あの写真の笑顔を見ていると、あの子の人生全部が不幸だった訳じゃないかもしれないと思えるの。あの写真、さちお君が撮ってくれたのよね?」
僕は写真のウミと目を合わせたまま頷いた。
「初めてウミと水族館に行ったときに撮りました」
そう、と母親は目を伏せた。ふいに立ち上がり仏壇に歩み寄ると、写真立てを手に取り僕の方を振り返った。
「私にはこんな笑顔見せなかったもの」
母親は微笑みながら我が子の写真を撫でるように指を沿わせた。その仕草や表情は、どこか哀しげだった。
この母親に対して僕がしてあげられることは殆ど何もないのだろうなと思った。たった一年付き合っていただけの男が、子を亡くした親の心を慰められるはずがなかった。
僕は居心地の悪さと、せめてもの気遣いのつもりで席を外すことにした。
「あの、ウミの部屋に行ってもいいですか?」
母親は写真に向けていた笑顔を僕に移し、「ええどうぞ。好きなだけ居ていいから」と言った。
僕はソファーから腰を上げ、リビングのドアを開けて階段に向かった。
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