第二章 出会い

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 一日中降り続いた雨は、人々が寝静まってからも止む気配を見せなかった。  ただでさえ少ない深夜の客足はめっきり無くなり、人類がいつのまにか滅亡してしまったのではないかと心配になるほどだった。  一時間に一回のペースでトラックの運転手がトイレを使いにやってくるおかげで、世界がいつも通り回っていることを確認できていた。 「イチゴとバニラ、どっちが幸せの味だと思いますか?」   不意に発せられた声に僕は驚いた。  いつの間に来店したのだろうか。僕と同い年くらいの女の子がレジの前に立っていた。 「あの、どういうことですか?」  そう答えるのが精一杯だった。  彼女は意にも介さない様子で尚も話しかけてくる。 「だから、イチゴ味かバニラ味だったらどっちがより幸せの味がすると思うかってことです」  僕には彼女の言葉の意味が分からなかった。  彼女は両手にハーゲンダッツを掲げたままで僕の目を一直線に見つめている。 「どちらも美味しいと思いますよ……」  無難な答えに満足しなかったのか、視線をアイスに移して尚も考え込むそぶりを見せている。  よく見ると彼女はびしょ濡れだった。  肩の上で切り揃えられた黒髪がツヤツヤと光り、張りついた白いシャツは鎖骨の形を浮き上がらせていた。 「私、さっき誕生日を迎えたばかりなんです。だから自分へのご褒美としてハーゲンダッツを食べようと思ったの。でもどうせ食べるなら、より幸せな気持ちになりたいじゃないですか」  意味不明だ。それが率直な感想だった。  初対面の相手にそんな質問を投げ掛けるのは間違っていると思うし、誕生日にずぶ濡れになりながらアイスを買いにいく思考回路は理解できなかった。  それでも ”店員とお客様” の関係を適切に保つために、僕は精一杯の返答を絞り出した。 「僕だったら、イチゴにすると思います。誕生日ケーキにはイチゴがのってるイメージがありますし、なによりあなたにはイチゴが似合うと思います」  根拠のない粗雑な意見を披露するのはかなり恥ずかしいのだなと思い知る。  仕事中でなければ絶対口にしないような台詞だ。早くこの状況から逃れたい一心で口をついた言葉は、実に軽々しくコンビニに吸収されていった。  しかし、彼女の反応は予想外だった。 「やっぱり、あなたに訊いて良かったです」  彼女は鼻の付け根に小さな皺を寄せながら笑った。  そして人差し指を僕の左胸に向けて示した。 「幸せに生きているあなたに訊いて良かったです」  ”幸せに生きているあなた” の言わんとすることを理解するには暫く時間が掛かった。  その間彼女は僕の顔と左胸に付いている名札とを交互に見ながら笑顔を保ち続けていた。   ”いばらき さちお”  それが僕の名前だ。漢字にすると茨木幸生。  きっと彼女は僕の名札を見て、幸生を ”しあわせ” と ”いきる” に変換したのだろう。  安直だけど、こういう言われ方をされるのは珍しいことではなかった。  『素敵な名前だね』とか『御利益がありそうだね』とかのお世辞ともつかない誉め言葉をもらうこともある。  僕自身は幸生という名前に対して、とくに好感も不満も抱いていない。  生まれたときから幸生として生きてきて、自分が幸生であることに疑問を感じることなど一度もなかった。  それは太陽が東から昇って西に沈むとか、現在から過去には戻れないとか、自分ではどうすることもできない不変の真理には誰も抗おうとはしないのと似ている。  僕も、僕が幸生であるという事実を疑いなく、半ば無関心に享受していたにすぎない。  結局彼女は僕の言う通りイチゴ味のアイスを買って帰ったのだが、まさか翌日大学の構内で再開することになるとは思いもしなかった(普段は自主休講にしている講義だったが、その日はグループワークをしなければならず、しぶしぶ登校していたのだ)。  廊下で「幸せくん!」と大声で呼ばれた僕は、驚きと恥ずかしさの余り逃走を図った。しかし彼女は意図も容易く僕を捕まえた。 「幸せくん、同じ大学だったんだね」 「その呼び方は止めてください。幸生です」  彼女はアハハと跳ねるように笑い、片側の髪を耳に掛けた。  ひょっこりと姿を見せた耳は、柔らかなカーブと心地よい凹凸を作り出していた。 「幸生くん幸生くん幸生くん」  咀嚼するように繰り返し名前を呼びながら満足そうに頷いている。 「私はウミ、成瀬ウミ。よろしくね」  これが僕とウミの出合いだった。  後から分かることだが、ウミは人一倍幸せに執着していた。コンビニで僕の名前に入った ”幸” の字に反応したり、幸せとは何かについてよく分からない持論を展開したりすることもしばしばあった。  ウミと出会えたのは、僕の名前が幸生であったからにすぎない。  だから僕は幸生と名付けられたことに感謝しなければならなかった。  しかし結局は彼女との別れが訪れるのだから、幸生と名付けられたことを恨むべきなのかもしれないとも思う。  いずれにせよ僕の名前は幸生で、その名前のお陰でウミと出会うことができ、最終的に彼女は僕の前から姿を消した。  その事実だけは覆りようがなかった。
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