第三章 水族館

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 初デートの場所は水族館だった。  映画を観たいという僕の提案はあっさり却下され、「私は魚が見たい」と強引にウミの希望が採用されることになったのだ。 「私の好きなもの、何だと思う?」  水族館へ向かうバスの中でウミが尋ねてきた。  普段はズボンしか履かないウミが、その日は珍しくスカートを履いていた。  カーブの度にウミと僕の太腿は密着し、僕は鼓動を抑えることができずにいた。そんなことは気にもせずにウミは体を寄せて話しかけてくる。 「私は何が好きでしょう」 「さあ、なんだろうね。成瀬の考えてることは見当もつかないよ」  僕はギリギリまで通路側に体を寄せて、ウミから距離を開けようと試みていた。  ウミが何を好きかどうかなど考える余裕はなかった。僕の頭はどうすればウミから距離を開けることができるか、それだけを考えていた。 「ねえ幸生君、考えてる?」 「水族館に行きたいと言うくらいだから、魚が好きなんじゃないかな」 「だめだめ、そんな浅はかな答えは却下します」  ウミは両手でバツを作り、唇をつぐんだ。 「僕なりに頭を働かせたつもりなんだけど。それより、ちょっと近過ぎないか」  ウミは無言で僕との距離を開けた。  緩やかに上へカーブした睫毛をパチパチとさせながら、僕の目を真っ直ぐに見て口を開いた。 「幸生君は、もっといろんなことについて深く考えるべきだよ」  真摯な眼差しからはウミの強い意志が溢れ出しているようだった。 「どういうこと?」  僕はウミの顔をまじまじと眺めた。 「人間はね、考えることをやめた時点で死んだも同然なんだよ」  ウミが何の話をしているのか僕には分からなかった。  彼女はたまにこうして分かりにくい話をし始める。すると僕は黙って話が終わるのを静かに待つのだ。  口を挟めば話が長くなるだけだということは経験から分かっていた。 「羽も生えてない。鋭い牙もない。速く走れる脚力もない。そんな人間が生きていられるのは頭を必死に使って考えてきたからだよ」  僕は二度頷いた。 「エジソンだって失敗しても何度だって考えるのをやめなかったから天才と呼ばれるような発明ができたんだよ」  僕は深く、一度頷いた。 「今の幸生君は死んでるよ、人間として」 「え?」  黙って聞いていた僕も、反応せざるを得なかった。  誇れる生き方をしてきたわけではないが、人として死んでいるなんて今まで言われたことがなかった。 「それは酷い言われようだな。そりゃエジソンと比べたら微々たるものかもしれないけど、僕なりに頭を働かせてるつもりだよ」  僕の話の途中からウミは被りを振り始めた。 「質の問題じゃないの。もっと大きなものについて考えるべきだってこと。目先の小さなものじゃなくてね。例えば夢について。地球の反対側にいる子供達について。幸せについて。付き合ってる彼女の好きなものについて、とかね」 「よく分からないな」  ウミは小さく溜息をつくと僕から目を逸らし、鞄の中を漁り始めた。  まったく自由な奴だなと僕は半ば呆れた気持ちだった。  ウミは鞄から手の平に収まる大きさの巾着袋を取り出す。蝶々結びされた紐をほどき、袋の口を開けて中に入っていたものを手に取った。 「これ、覚えてる?」  ウミが取り出したのは、ハーゲンダッツの蓋だった。  もちろん覚えている。  なんの変哲もないプラスチックの蓋だが、僕たちにとっては意味のあるものだった。 「覚えてるよ。成瀬と僕が初めて会った日、成瀬が買っていったハーゲンダッツの蓋だ」 「そうだよ」 「よく捨てずにとっておいたね」 「当たり前じゃない」  ウミは大事そうに蓋を掌で包み込んだ。  そして小さな声で「捨てるわけないじゃん」と囁いていた。 「どうして捨てずにとっておいたの?」  ウミは前を向いていた。その目はバスの電光掲示板にある行き先を見ているわけでも、規則正しく揺れるつり革を見ているわけでもなく、大学一年生の夏の夜に向けられているようだった。 「あの日ね、私は死のうとしていたの」
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