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good boy,bad girl 8
自由市場の中心、ちょうど通りがクロスする場所を覆うようにして屋根が張られた無料休憩スペースがある。
丸椅子とテーブルが並べられて、市場で買ったものや持参したものを食べられるのだ。
道の角々にあたるところの店は、すべて食べ物を扱っていた。コーヒースタンドからは深い香りが漂う。焼きたてのパンケーキやお好み焼き、川魚の炭火焼きもある。……みんな焼き物だな。客の平均年齢が高いから、油で揚げたものなどあまりないのだ。
それにしたって腹ぺこできたら、きっと匂いだけで目が回るだろう。
店からはすこし不便なところに陣取ると、塩地は持参した水筒からお茶をついでわたしの前に置いた。太陽が雲間から覗いて、蒸し暑くなってきた。お茶で喉を潤していると、火村女史が来るのが見えた。その後ろに、うつむきかげんの女性が続く。どうやら、ほんとうに連れてきてくれたようだ。
女史はわたしたちのところへ来ると、軽く頭を下げて向かい側に座った。つぐみさん、一昨日は身なりが雑だったせいで老けて見えたけど、今日はアイロンの効いた青いシャツとパンツを身につけて薄化粧もしている。ぼさぼさだった髪は、きちんと整えられて肩のあたりまで素直に下りている。可愛らしい娘さんだ。つぐみさんは所在なげに立っていた。わたしたちのほうを極力見ないようにしているように感じる。
「つぐみ、座りなさい」
はい、と小さく返事をしてつぐみさんはようやく座った。
「すみません、アンドロイドにはあまり慣れていなくて。施設にはいませんから」
火村女史はわたしの横に立つ塩地にちらりと視線を向けた。ああ、そういえばつぐみさん、病院へ来た時も塩地に驚いていたっけ。
「塩地、目をつぶって。これでいいかしら。布でも被せる?」
目をきつくつぶり、首のタオルを外してほっかむりまでした塩地を、わたしは手で示した。
「まあ、それでいいですよ」
ふざけていると思われたのか。苦々しげに火村女史は眉間に手を当てて足を組んだ。つぐみさんは、少し笑った。笑うと、花が咲いたように感じる。若い子の笑顔なんて久しく見ていなかったから。
「そうだ、飲み物買ってきて。ノンカフェインのをね」
さっきイチゴと交換したときにオマケで貰った飲み物のクーポンを、目をつぶった塩地に渡した。塩地、ほっかむりしたままでジューススタンドへ足を向けた。ライダースーツにほっかむり。怪しまれなきゃいいけど。それからわたしはつぐみさんに顔を向けた。
「つぐみさん、一昨日はごめんなさい」
わたしが頭を下げると、つぐみさんは顔をあげて、ぱっちりとした目を更に大きくした。
「いきなり言われたら驚くわよね。生むか生まないかなんて」
「いえ……その……」
続けて何か言いたげに唇を動かしたつぐみさんだったが、あとは声にはならずまたうつむいてしまった。
「わざわざうちまで来てくれて、ありがとう。心配なことがあったら、なんでも聞いて」
つぐみさんは頬を少し赤らめて小さくうなずいた。
「本日お話したいことは、つぐみの中絶手術についてです。そちらでお願いできますよね」
こんどこそ、つぐみさんは顔をあげて女史を見た。わたしは女史の言葉を無視して尋ねた。
「つぐみさんは? あなたはどうしたい? あなたの気持ちを教えて」
「わたしは……」
つぐみさんの唇がわずかに開きかけたとき、女史がつぐみさんを睨んだ。
「つぐみ」
鋭い声に、つぐみさんは体を縮めた。
「ちょっと、これじゃあ農園に行ったときと同じじゃない。生むも生まないも本人に決定権がある」
「この子に判断なんてできない。水垣が生めと言えば生むしかないのよ。冗談じゃない」
「だからといって、火村さんが生むなというのもおかしな話しだわ」
わたしたちのやり取りに、つぐみさんが遠慮がちに手をあげて発言を求めた。
「わ、わたしは生みたいです。代表がお望みですし」
「これだから……」
火村が吐き出すようにつぶやき、つぐみさんをまた睨む。わたしは、もっと話すよう掌を上下してみせた。
「不安はあります」
とつとつと語るつぐみさんの声に耳を澄ます。つぐみさんは耳を赤くし、体を小さく揺らしながら話を続けた。
「生まれる子供が少ないから、友だちになる子はいるのかなとか、学校へは通えるのかなとか」
「学校って……」
そんな年になるまで生きられないよと、思わず口にしそうになったとき、わたしを火村女史が射殺さんばかりの視線で見ていることに気づいた。
「もういいでしょう、つぐみ。あなたの気持ちは分かったわ」
女史は妙に優しい声音でつぐみさんの言葉を遮り、無言の圧力をかけた。奇妙な沈黙がわたしたちの間に流れた。たぶんわたしは、狐につままれた顔になっていた。つぐみさん、知らないんだろうか。地球があと三年で終わることを。
「お待たせしました」
塩地が、火村女史とつぐみさんの前に赤紫のジュースが入ったグラスを置いた。からん、と氷がグラスの中で鳴った。
「特製のしそジュースです。夏バテに効果ありです」
塩地がまたわたしの後ろに下がると、女史はグラスに手を伸ばして一口飲んだ。
「つぐみ、いただきなさい」
言われてから、つぐみさんはグラスに口をつけて、美味しいと小さくつぶやいた。
「いちおう、これを渡しておくから読んでみて」
わたしはバッグから妊婦向けに書かれたパンフレットを出してテーブルの上に乗せた。妊娠初期から臨月までの過ごし方が書かれてある。もう使うこともないかと納戸に片付けていたのを引っ張り出してきたのだ。陽には焼けていないが、子どもを抱いた母親の写真がどこか古めかしく感じられる。
つぐみさんはパンフレットを手に取ると、戸惑うようにページをパラパラとめくった。なんだか目が泳いでいる。
「無駄なのに」
飲み干したグラスを置いて、火村女史は眉間にしわを寄せた。何かの焦りを落ち着けようとするように、つぐみさんはジュースに口を付けた。が、口を押えて突然立ち上がった。
悪阻だ、と思うより早くつぐみさんは立ち去った。見ると、つぐみさんの後ろのテーブル席で、焼き魚を乗せた皿や汁物などが並べられていた。
「たぶん、トイレに行ったと思う。手術お願いしますよ。時期を見て診療所へ連れて行きます」
「そちらにも医師がいるんでしょ。堕胎手術ならそちらでやればいい」
つぐみさんが残したパンフレットを手に、立ち上がった火村女史はわたしを見た。
「あいにく佐藤先生も水垣のいいなりだから。それに今は体調が」
最後は言葉を濁して、パンフレットを丸めた。
「こんなのあの子に渡しても、無駄。読めないんだから」
「ちょっと、読み書きができないの? それにあと三年で地球が終わることも教えてないんじゃないか。農園はどんなことをあの子に吹き込んでいる」
火村はわたしの言葉を鼻で笑った。
「どんな教えであろうと、構わないじゃない。こんな末世に救いを求めたって誰も責めないでしょう。ジュース、ごちそうさま」
それきり背を向けて、火村女史は帰っていった。
「マスター、血圧が上昇しています」
塩地がわたしの手首をとる。わたしは鼓動が耳の中で反響するのを聞いた。
あの人たちは、つぐみさんに何も教えていない。字も世界のことも。
「命じられないと動けない方でしたね」
座れと言われてから座り、飲めと言われてから飲み……。この子に判断なんてできないと女史は言ったが、判断できるように育てられなかったのだ。恐らく。
「追いかけよう」
わたしと塩地は、また農園の出店まで戻った。しかし、出店はすでに片付け中だった。
「すみません、今日はもう売り切れで」
レタスを勧めてくれたご婦人たちと数名がまだ残っていた。商品を乗せていた台をたたみ、リヤカーへと乗せている。トラックは消え、火村女史とつぐみさんの姿も見えなかった。
「火村さんは……」
日に焼けた女性が一瞬怪訝そうな顔をしたが、もう帰ったことを教えてくれた。わたしにレタスを勧めた女性が続けた。
「幹部はトラックで帰れるんですよ。わたしたちは、リヤカー引いて歩いて帰ります」
くったくない表情で片づけをしている女性たちは、みな五十代前後に見える。ここから農園まで歩いて帰るにはどれくらいかかるだろう。
世界は、平等になったんじゃないのか。塩地がわたしの腕を支えた。
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