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綺麗な字
「字は、綺麗な方がいい」
そう父に言われ、育ってきた。
塾や習いごとを強要する親ではなかったが、習字教室にだけは通わされた。
俺自身も習字は嫌いではなく、毛筆も硬筆も賞を取る程に上達し、気が付けば就職して社会人となった。
そして今、父にはとても感謝している。
ペーパーレスが叫ばれる昨今でも、文字を書く機会は意外と多い。
書類へのサイン、会議の時のホワイトボードへの板書等。生きていく上で、文字を書くというのは未だ欠かせない行為だ。
『君はいい字を書くね』
『君が書くホワイトボードは読み易くて、助かるよ』
そんなことを言われる度、父の教えは間違いではなかったと確信を深める。
父は昔、字が汚いことがコンプレックスだったという。
悪筆、等と言われることもあったそうだ。
悔しくて、悔しくて必死に練習をしたのだという。
そして母と結ばれるきっかけとなったのは、その上達した字でしたためた手紙だった。
当時、同じ会社で働いていた母の机に忍ばせた手紙が、見事に心を射止めた。そんな惚気話を聞かされたこともあったっけ。
とにかく、字が綺麗で困ったことは一度も無かった。
そして今も……。
「先輩! すみません……」
振り返ると今年入社した、新卒の女の子が立っていた。まだ大学生の雰囲気が抜けきっていない、初々しさがある。
「ん、どうしたの? さっきの打ち合わせ、分からないところがあった?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」
もじもじして、言い出し難そうにしている。しかし、意を決したように俺を見上げて、口を開いた。
リップを塗られた唇がぷるん、と揺れた。
「あの、先輩って字がお上手ですよね。私、酷い癖字で……」
彼女の字は全体的に丸々としていて、女の子らしい、可愛いらしい字だな。そんな風に感じていた。しかし本人が言う通り、癖のある字で『綺麗』には分類されない字でもある。
「社会人になったからには、直さなきゃなって思って……。先輩、私に字が綺麗になる練習方法、教えていただけませんか?」
大きな瞳がウルウルな後輩社員。
可愛い後輩にそんなことを言われて、断る筈がない。
ほら、やっぱり。
字が、綺麗で困る事なんてないんだ。
俺は舞い上がる意識の中で、そんなことを考えていた。
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