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母と暮らしていたマンションの、リビングのコルクボードに貼られていた写真をいったん頭に思い浮かべ、それから私は改めて目の前の景色へ視線を移した。
父が住む家の縁側から眺める庭は、人が行き来する部分と洗濯もの干しが置かれた部分を除き、あとは全て緑に覆われている。
私の腰ぐらいの高さで、こんもりと丸く切り揃えられているのは躑躅の木。
一番奥に、壁のように並んでいるのは山茶花。
屋根よりも高い、柿や枇杷や栗の木。
上にではなく左右に枝を大きく伸ばした、松の木と梅の木。
その横に寄り添うように繁る、南天の木。
樹木の名前は、ほぼハナちゃんからの受け売りだが、季節を通してさまざまな花が咲き、実が生り、眺めていて飽きることのない立派な庭だとハナちゃんは褒める。
事実、父が撮ったこの庭と、その奥にどこまでも続く鬱蒼とした森の写真を見て、実際に見てみたいと思ったのが、私がここへ来た理由のもう一つではある。
縁側にこうして座っていると、時が経つのを忘れる。
家にテレビがないことと、電波状況が悪くてスマホがほぼ使いものにならないこともあるが、ここで庭を眺めていると、何も考えずにのんびりしていられた。
冷蔵庫にどんな食材が残っていて、それで今晩は何を作ろうかとか、明日は天気が崩れそうだから、今日のうちに大きな洗濯ものは済ませてしまおうだとか、家事のことだけ考えていられる間は、この家での暮らしを私はずいぶんと気に入っていた。
しかし――。
(転校手続きはしたけど、新しい学校でどのあたりまで授業が進んでいるのかは聞きそびれちゃったな……そもそも教頭先生にわかるとも思えないけど……)
二学期からはこちらの学校へ通おうと、夏休みに入るとすぐに手続きはしたものの、高校も二年になって学校を変わるということがどれほど面倒か、私はよくわかっていなかった。
(せめて二学期が始まるのにあわせてこちらへ来るべきだったかな……早くここでの生活に慣れたほうがいいかと思ったんだけど……することがない……)
都会にいた頃も、友人と頻繁に出かけたりするほうではなかったので、どうせSNSでやり取りするのならば遠くでも変わらないだろうと思っていたが、そもそもそれが繋がらない。
父はほぼ仕事小屋から出てこないので、ハナちゃんが来てくれなければ、誰とも話すことなく終わる一日が続いてもおかしくない状況だった。
(すごく仲がよかったってわけじゃないけど……みんな私のことなんてすぐ忘れちゃうんだろうな……)
あまり多くはなかった友人たちの現在を想像し、一抹の寂しさを感じ、ここへ来た選択を少し後悔する気持ちが芽生え始めた時、ハナちゃんがふいに口を開いた。
「することがなくて暇じゃったら、上之社の展望台に行ってみたらどうじゃろ」
「上の社? 展望台……?」
暇すぎて縁側に寝転がっていたことをハナちゃんに見破られしまい、少し恥ずかしく思いながら、私は聞き慣れない言葉を確認した。
「ああ。麓に大きな神社があるじゃろ? そのもともとの社が山の上にあって、町の全部を見渡せる展望台があるんじゃ」
「へえ……」
それはとてもいい景色だろうと、私が興味を持ったことが嬉しいらしく、ハナちゃんはにこにこと勧めてくれる。
「車で登れる道はないけえ、送っていってはやれんけど、ここからなら一時間もかからんじゃろ。時間があったら、『うてな』を探してみるのもいいかもしれん」
「『うてな』?」
「ああ、今の展望台が整備されるよりずっと前に使われちょった、自然の見晴らし台やね……どこにあるのか誰も知らんけど、古い言い伝えがあって……」
「言い伝え……」
説明に耳を傾けながら、もうすでに、縁石の上に脱ぎ捨てていたスニーカーを履き始めた私を、ハナちゃんは嬉しそうに見つめる。
「ああ。夕暮れ時に、その『うてな』へ行ったら、『いろんなもの』が見れるんじゃそうだ……『いろんなところ』へ行けると言う人もおる」
「それって……?」
いったいどういうことだかわからず、首を傾げる私に、ハナちゃんはふぉふぉふぉと笑った。
「さあ、わしにもよくわからん。ほんとに『うてな』を見つけたっちゅう人も知らんしね」
「ああ……」
都市伝説のようなものかと笑い返す私の肩を、ハナちゃんはそっと叩いた。
「どのみち、夕暮れまで上なんぞにおったら、帰りの道は真っ暗じゃ……そうならんうちに、帰ってくるんじゃよ」
私は、この家に来てからほぼ時計としてしか機能していないスマホの画面を見て、まだ昼を少し過ぎた時刻なことを確認し、庭に下り立った。
「うん、行ってくる。ハナちゃん、ありがとう!」
笑顔で手を振るハナちゃんに見送られながら、颯爽と出発したはいいものの、スマホを忘れてしまったことに気がついたのは、でこぼこの山道を、山頂にあるという『上之社』目指して、かなり登ったあとだった。
(まあいいか、一時間ぐらいで着くだろうってハナちゃんも言ってたし……)
そう決断した時は、私はまだ、森の怖さというものをまったく理解していなかった。
車も通れるほどの広さだった道幅が、やがて人一人が歩くのにちょうどの狭さになり、ある程度の前方まで見渡せていた視界が、前後左右すべて見上げるほどの木々に遮られてしまうに至り、軽率に出かけてきたことを後悔しそうになった。
(いったいどこまで行ったら頂上なの? もう一時間以上歩いたんじゃないかな……ハナちゃーん!)
疲れた足をひきずり、心の中だけで、助けを求める叫びを上げた時、ようやくそれらしき場所へと着いた。
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