まな板の上のフクシア

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d896762f-ac48-42d0-a5e2-075afacfa149  傾斜したバス通りを、銀杏並木越しの黄色い日差しがまっすぐ射してくる。この季節は目を細めながら、空っぽの子乗せ台がついた自転車ペダルを踏みしめるように漕ぐ。生理が近いので腰が重い。左手には寺とラブホテルの入り乱れる街、通りの反対側は新聞社をはじめとするビジネス街。あたしの出勤時にラブホテルから駅への道を歩くカップルが減らないことにこの半年は驚き呆れ続けている。世界的な感染症でとんでもない状況になっているこのご時世に、まだ、セックスしているヒトが、この街にこんなにもいる。飛沫でも感染してしまう病気なのに。しかもホテルってことは同棲してるわけでも、夫婦でもない、つまりは浅い関係もしくはそういう「おしごと」だろう。あたしはゾッとして、マスクのワイヤーを左手で鼻筋に再度ぴったりと添わせる。それにしたってカップルは邪魔だ。このただでさえ慌ただしい時間帯に、歩くのがのろい。そして幅の狭い歩道で手をつないでいる。後ろから何度も自転車のベルを鳴らす。さっと離れるような気の利くカップルはそういないので、多めに強めに鳴らす。今朝あたしの前を塞いでいたのはくたびれたスエットを着た歩きタバコの中年男と、男のものと思われるジャケットを羽織った女子高校生だった。制服を隠す意図で着ているらしきジャケットの裾からプリーツスカートの独特のボックス型のひだが見える。上の娘の第一志望校の制服だった。この子の母親も塾代や学費や馬鹿高いと評判のこの制服代を稼ぐためにあくせく自転車でパートに行ってたんだとしたら世も末だ。追越しぎわ、マスクの下でこっそり舌打ちをする。  どん突きを左に折れると、雑多で繁華な街がある。一帯はいつもどことなく油っぽい、汚れた匂いがする。ビル裏の駐輪場に自転車をとめ、店の裏口へと階段を上がる。あたしのパート先は某ファミレスである。大きめのオフィスビル二階の、通りに面した広い窓のある店。明るいことは明るいのだが、席ごとの衝立が2メートルほどあって各テーブルの様子がわかりづらい作りになっているので、怪しいビジネス商談はよく見かけるし、立地のせいかあまり健全でなさそうな組み合わせのカップルも見慣れてしまった。更衣室に入り、髪を束ね制服に着替え、入念に手洗いをしてから、店支給のフェイスガードを装着する。午前十時から午後三時まで、ひたすらオーダーを聞き料理を運び皿を下げる。頭も下げる。そうして稼いだ月六万円は、ほとんどが二人の娘の塾と習い事の月謝に消え、あたしの小遣いは二万円だ。年々足の浮腫がひどくなっていて、まだ午前中なのにパンプスがきつい。  16番テーブルの呼び出しランプが光っている。小走りで席に向かうと、色の白い、まだ青年と呼べそうな年代の男性と四十路がらみの痩せぎすな女のテーブルだった。青年の前のチーズハンバーグプレートはもう湯気を放っていない。女が真っ黒に縁取られたシジミのような目で呆れたようにあたしの顔を見上げてため息をつく。青年が一呼吸置いて「あの、おろしハンバーグプレートのオーダーが通ってるか、確認していただけますか」と申し訳なさそうに伝える間、女は視線を落としてスマートフォンを触っている。待ち受け画面は運動会でダンスする小学校高学年ぐらいの男の子。女がわざとらしくついた深いため息の圧で、あたしの喉元がつまる。「確認してまいりますので、もう少々お待ちください。」申し訳ございません、が、言えなかった。  オーダーは通っていたが、おろしハンバーグはキッチン担当者のミスで既に別のテーブルに運ばれてしまっていたので急かして仕上げてもらう。午前中の余裕のある時間帯でよかった。あの女のため息が耳の中でまた再生されて喉元がつまる。ぐっ、と唾を飲んで16番テーブルに向かう。「お待たせいたしました、おろしハンバーグプレートです、」テーブルの上で青年の手を女が撫でていた。青年の白い右手の甲にホクロがふたつ並んでいるのを、女の枯れた左手の指が、さも愛おしそうになぞっている。食い込んだ金色の結婚指輪は、十数年前に流行した形に見える。皿が置けないのでその様子を一部始終見つめている羽目になってしまった。口の中まで苦い感情が込み上げてくる。ようやくあたしに気づいた二人が空けたスペースにごとん、と音を立てて皿を置いてしまったことには気付いただろうか。伝票を確認しテーブルを去ろうとした瞬間、女が明らかにあたしに聞こえるように、でもあくまでも独り言の距離感で吐いた「謝れないわけ?こっちは時間ないんだけど!」は聞こえないふりで別のテーブルのオーダーを取りにいく。お会計の後、通りの向こうのラブホテル街へとホクロの青年の手を引いていくシジミ女を見てしまい、その日はまったく最悪だった。時間ないってなんだよ、なんの時間だよ!  退勤時はいつもより念入りに手を洗った。シジミ女の指の動きを何度も思い返して、口の中が苦味でいっぱいになってしまう。爪の間や手首まで洗う。帰ったらシャワーも浴びたい。ハンカチもセーターも、身につけたものは全て洗濯して、メガネもアルコールで綺麗に拭きたい。呼吸が浅く早くなっていた。スーパーで特売の鶏胸肉と食パンと娘の算数ノートを買い、下の娘の帰宅時間までになんとか家に戻る。シャワーを浴びながらもあの指の動きを思い出し、何度かえづいた。吐き気はするのに涙は出ない。世間がこんな状況なのに、なかにはあんなにうっとりと、男に触れている女がいるのだ。  翌日は水曜でパートがなかった。洗濯物を干してリビングに掃除機を掛けてしまうと、家の中の静けさがまた頭の中に昨日のモヤモヤを呼び起こしてきた。他人がセックスをしている(らしい)のがこんなに頭に来るのは、どうかしてるのかもしれない。あたし自身にはもう、セックスは関係のないことなのに。かわいい娘を二人も授かって、母としてはとても幸せだし、物静かで優しい夫とは結婚して十六年ほぼ喧嘩もせず、うまくやっている。地味なあたしは女としての華やかな幸せには若い頃からあまり縁がなかったし、今のあたしがまだこれ以上の何か望むのは贅沢だろう。  もう一杯コーヒーを淹れようと立ち上がったところに、メールが届いた。カウンセラーの小夜さんのメルマガを、ずっと解約できずにいる。小夜さんはあたしの料理の先生だったひとで、少し変わった経歴を持つ。二十年前から料理研究家で、十年前からはセックス専門のカウンセラーでもあった。近所のカフェで開かれていた小夜さんの料理教室は料理のラインナップが充実していてためになったし、食後にタロットカードで占いをしてくれたりして楽しかったので半年ほど通った。小夜さんを慕う女性たちはかなり奔放な人が多く、カウンセラー仲間の方が集まった日には明け透けなセックスの話が飛び交っていたりしてあたしは面食らったが。    ある時教室に早く着きすぎてしまって小夜さんと二人の時があった。小夜さんは職業柄か日常会話の流れでさらっとあたしと夫との関係を言い当てた。「みさこさんって、旦那さんのことパパって言ってるでしょ? もう手を繋ぐのも恥ずかしい、みたいな。デートとかする?」図星だった。でも悪いことだとは思えなかったし、下の娘が生まれてからはずっとそんな感じだった。お互いがお互いのパパでママ。女を家庭に持ち込むのはもう面倒だった。  いつもはお料理の話題や恋人との暮らしで思うところをユーモア溢れる暖かな目線で綴っている小夜さんのメルマガは、今回驚きの内容だった。「女性用風俗店のプロデュースをしました」。リビングに一人なのにドギマギして、一瞬周りや窓の外を確認してしまう。そんなの映画や小説の中だけの話だと思っていた。コーヒーのおかわりを淹れて、ソファでメルマガの続きを読む。小夜さんのカウンセラー仲間に助産師さんやビジネスで成功した女性がいることは知っていたけれど、そんな展開になっていたとは。メルマガには、どうしていま女性用風俗店が必要なのか、普段とは違う真摯な文体で、小夜さんの言葉が綴られていた。最近流行っている出会い系アプリではあまりにも女性側に肉体的・精神的リスクが多く犯罪やトラブルに巻き込まれる場合もあって危険なこと、家庭や仕事など社会的な制約から離れて自由に性を楽しめる場所が男性だけに許されていて女性には気軽に通えるサービスがほぼない現状について、など。  メルマガの最後にお店のURLが貼られていた。目にも耳にも馴染みのないフランス語の店名。あたしは男性用風俗店の相場も知らないが、価格がいくらぐらいなのか興味が湧いた。女性用と言ったって、こんなのお金持ちの奥様やバリバリ稼いでいるキャリア女性向けだろうからきっと数万円はくだらないんだろう。確認するだけ、と言い聞かせてあたしはURLをクリックした。  お店のサイトは白を基調にしたシンプルかつ洗練された明るいデザインで、一見すると美容院のそれのようだった。てっきり裸が溢れているのかと思っていた自分がたちまち恥ずかしくなった。在籍している男性スタッフの写真一覧も美容師さんふうで、その人の雰囲気が伝わる様子を写したラフなものだが、どれも自然な撮り方で顔を隠している。指が綺麗な人は手で顔を半分覆っているし、広い背中が自慢らしい人は後ろ姿。逆光で撮られた横顔の写真の人はまつげや鼻筋が綺麗で、顔立ちが特に整っているのかもしれない。名前は売れている芸能人の苗字と名前とくっつけたような、いわゆる源氏名。気になっていた価格は二時間で一万円、プラスホテル代らしい。あたしの使っている基礎化粧品と大して変わらない。ふーん、とページを戻った瞬間、スタッフの一人の手に釘付けになった。するりとした質感の白い右手の甲にホクロがふたつ並んでいる。昨日シジミ女に手を引かれていったあの青年に背格好がよく似ていた。あの二人の、明らかに恋人とは違う空気感が腑に落ちる感じがした。サイトの閲覧履歴を消して、夕飯の買い物に出かけるために軽くメイクをする。  四十を過ぎてから、手帳を見なくても生理周期がわかるようになってきた。生理の一週間前になると、どんなによく眠った翌日でも顔色がどんよりと濁り、シミも濃くなるので鏡を見るだけで気づく。若い頃からファンデーションが要らないほど肌だけは自慢だったのに。二年ほど前からはだんだんと生理の周期が短くなってきているのもわかっていた。「もう産まないの?」「それでいいの?」とそれでも新しい卵子や子宮内膜を準備する自分の身体にいじらしさを感じる一方で、毎月問い詰められるような気分にもなる。下の娘を産んで数年は姑からもそれとなく「女の子も可愛いけど、男の子は要らないの?」と何度か聞かれていたのを思い出す。夫は二人兄弟の長男で、義弟は四十を過ぎても独身だった。そんなことあたしに言われても。あたしたちは子づくりはおろか、スキンシップもしていない。男と女になる空気を夫はそれとなく避けていたし、体調のせいか仕事のストレスのせいかベッドで何度か「ごめんね」と謝られたこともある。あたしも二人の娘の子育てと家事だけで日々疲れ果てていたので、眠れない時に自慰をするぐらいのものだった。眠る前のおまじないみたいなもの。  買い物前にナプキンの在庫を確認してみるとゼロだったので、上の娘にラインを送る。「ナプキンがなくなりそうな時は、ちゃんとママに伝えてください。」  上の娘が帰宅するなり怒る。 「ママ、ナプキンのことなんかラインで送ってこないでよ!みんなで動画見てる最中に他の子に見られるとこだったじゃない、男子もいたのに!」  塾の行き帰りが心配なので持たせたスマートフォンだったが、最近は家族とリビングにいてもこの娘は画面しか見ていない。学校内では電源を切るよう指導されているはずなのに、動画なんか見ていて叱られないんだろうか。それはともかく中学二年ともなればクラスの女子ほとんどに生理があるものだろうし男子生徒もわかっているだろうに、ナプキンの話題はまずかったらしい。生理が来たときにうちに一枚もないとママだって困るのよと伝えると「えっ、ママまだ生理あるの?」と驚いたあと、くっきりと嫌悪の表情が広がった。その嘘のつけない顔があまりに自分に似ていてうんざりする。娘からすると母親はどこまでも母親で、もう女でいてはいけないんだろうか。血で汚れたショーツを自分で洗うように付け加えたかったのだけど、言葉を飲み込んだ。  塾に行く前に食べたい、と夕飯の支度を急かされたので簡単にパスタとサラダを作る。トマトの湯むきをしている自分の柔らかな手つきが、シジミ女の指づかいと重なって頰が急激に赫らむのを感じた。リビングに目をやると上の娘はスマホ、下の娘はゲームに夢中でホッとした。今月は何度かヘルプで土日に働いたので、お給料は普段より二万円ほど多かった。ホクロの青年のことがちらつく。まさかね、冷蔵庫に掛けた鏡のなかのどんより顔の自分を見て、目を伏せた。現実はここにある。  翌週もその翌週も翌々週も月曜になるとシジミ女は来店した。相手は毎回違ってホクロの青年は来なかったが、いずれも指のきれいな男性だった。例のお店は出張型のサービスをしているようで、シジミ女と男性たちはここで食事をしてからラブホへ向かっているようだった。極力顔を見ないようにして接客をする。シジミ女はあたしの顔も、ミスがあったことも覚えてすらいないらしく、上機嫌で男性と食事をすると店をさっさと出、手を引いてラブホテル街へと横断歩道を渡っていった。その姿のあまりの清々しさに呆れるというより、あたしはいつからか無邪気な可愛らしさを感じるようになってしまったし、男性たちの振る舞いがあまりにスマートなので例の風俗店のサイトをまめにチェックするようになっていた。スタッフの年齢や身長、得意なプレイの書かれたプロフィールも一通り見たし、日々更新されているブログも読んでいる。手料理や新作映画の話や常連客からの差し入れスイーツなど他愛のないものについての投稿が多いが、時折どきりとさせるものもある。先日はホクロの青年が自分の手の大きさについて書いていた。学生時代にバスケットボールをしていたという大きな手。ボールを片手で掴む写真に、「女性の両手首ぐらいは楽に掴めますよ」と添えられている。あぁ。得意なプレイはソフトSM。あの一歩引いた静かな物腰と、年齢(二九歳)の割に余裕のある年増への接し方やあの立ち居振る舞いを思い起こして、下腹のあたりから頰までが熱くなるのがわかった。  パート先の店は県内一の繁華街から徒歩圏内にあるので土日もヘルプ出勤を求められることが多い。上の娘が小学生の頃は断っていたが、もう二人とも手が離れつつあるので学校行事などの予定がない限りは食事の支度だけして昼間のみ出勤するようにしている。土日は平日と打って変わって家族づれが多く、幼児や乳児を見ては懐かしさを感じるようになった。子連れ客への対応は座席への案内に始まってベビーチェアやスタイ、専用食器の準備、鉄板皿を置く際の配慮などスムーズな案内が必要になる。子育て経験のあるスタッフの方が子どもの月齢や親の状況を判断して動けるので、これでも土日は重宝される。慌ただしく騒がしいのでどっと疲れはするが、時給も150円高いので悪い気はしない。あっという間に退勤時間がやってくるのも良いところだ。  足のむくみを取る木酢液シートと夕飯用のテイクアウト中華を買って帰宅し着替えようとすると、寝室に置いてあるドレッサーの上の三面鏡だけがなくなっていた。どういうことだろうと娘たちの部屋に入ると、上の娘がヘッドフォンをして、三面鏡に向かいダンスの稽古に集中している。近づいてヘッドフォンをずり下げ、「なんで鏡がここにあるのよ!」とあたしが怒鳴り終るより前に突き飛ばされる。床の上に脱ぎ散らかしたままの娘の制服に滑って転び、盛大に腰を打つ。「勝手に入ってこないでよ!」誕生日にねだられて買い与えたbeatsのワイアレスヘッドフォン限定カラー二万円を床に叩きつけ地団駄を踏み金切り声で叫ぶ。どこか滑稽なのは、その姿があたしに似ているからだろうか。「だいたい!だいたいママがでかい鏡買ってくれないからじゃん!ママなんかもう化粧したって意味ないくせに!!」娘は四歳からダンスを続けていて、中学でもダンス部に入っている。が、部員が多すぎるので体育館の鏡の前で練習ができるのは三年生と一部の二年生のみらしい。ダンスが下手な方では決してないが、率直にものを言うわかりやすい性格が思春期のこの時期には災いし友人や先輩、先生とぶつかってしまうことが多く、あまり良いポジションにいられないのだ。確か、この娘はそろそろ生理前ではなかったか。毎月生理前はこんな調子だ。何もこんなところまで似なくても。よほど虫の居所が悪かったのか、声をあげてわんわん泣き喚き始めたのでそっと部屋を出る。  結局娘には姿見を買ってやることになって、夕食後に通販で注文してしまった。三面鏡の脚をドレッサーの穴に差し込んで、久しぶりにその前に座る。結婚前にボーナスで買った、無垢材のドレッサー。いつからか普段のメイクすら立ったまま洗面台ですませるようになってしまっていた。引き出しを開けるとマニキュアが何本か分離していたのでゴミ箱に入れた。  シジミ女は相変わらず月曜午前に男性づれでやってきた。ホクロの青年でないのを確認するたび、あたしは密かにがっかりしていた。顔に出ていなかっただろうか。シジミ女は毎回おろしハンバーグプレートを頼み、テーブルの上で男性の手を愛おしそうに撫で、食事が済むと嬉しくてたまらないといった様子で男性の手を取って横断歩道を渡っていく。ランチタイムに備えてレジに小銭を足しにきたホール係のミナミさんが「あれってツバメですかね? それとも地味だけどホスト? あのおばさん、そんなにお金持ってそうには見えないけど、取っ替え引っ替え恥ずかしくないのかな」と声のトーンも落とさずバカにした調子で言った。確かにシジミ女はブランド物も持っていないし、洋服も派手めではあるがおそらくそんなに高いものではない。ミナミさんは二部大学に通っている学生で、授業のない週末はホステスの仕事もしているせいかまだ二十歳というのに常連客やここのスタッフへの観察眼が鋭い。女性用風俗だよ、とは流石に言えないので口をつぐんだ。言ったらあたしが通ってるみたいじゃないか。通ってるまでは行かなくても知ってるってことは調べたのかと思われてしまう、いや実際調べてるけど。毎日ブログチェックしてるけど。  もしも女性用の風俗に知人が行っていたら、興味津々で話を聞くだろう。でも正直言ってあたしもその人を少し見下してしまうかもしれない。何万円かのお金を払わないと男性に触ってももらえない女、そんな風に見てしまう。もちろん口には出さないけど顔には出てしまうだろう。でも正直なところあたしだってそうだから、じゃああたしも、お金を払わないと、つまりは幾らかの補填をしないと性欲と承認欲を満たせないマイナスの女、ってことになるのか。なんか腹たつ。子ども二人育てて夫を支え、パートとは言え働いて世間の役にも立ってるつもりだ。触ってもらえるのが女の価値、ってなんなんだ。触りたくなるような若い肌や重力に逆らう体つきじゃないとありがたがられない世間の風潮。ありがたがってもらえなくなったら控えめに、欲は隠して生きないと恥ずかしいなんて、やっぱり、変だ。あたしは誰かを喜ばせるためにだけ生きてるわけじゃない。近頃そんなことを考えるたび、自分の欲を隠しもしないシジミ女を眩しく感じる。  そうは言ってもこのご時世に夫以外の人間と粘膜接触するわけにも行かない(粘膜接触なんて単語をこの平凡極まりないあたしが使うなんて、人生って世の中って、全く何があるかわからない)。夫は身体が弱く、慢性的な心臓疾患と喘息発作があるので、あの感染症に掛かってしまったら大変なことになりかねない。この騒ぎが始まった当初は接客でウイルスを持ち込んだらと思うと恐ろしくて、パートに入る日数も極限まで減らした。もっとも当時は店側も閑古鳥が鳴いている状況だったのでありがたがられたが。そう考えると風俗店ってこの状況で生き残っていけるのだろうか。夫と娘がそれぞれ職場と学校に出かけた後、そんなことを考えつつ今朝もブログを覗いた。『濃厚接触なし♪ ソフトSMコース始めました!』いや、冷やし中華やコンビニおでんみたいに言うなよ。今日のブログ担当はホクロの青年だった。鼓動が早くなる。キスなど粘膜同士の接触がない、マスクをつけたままのプレイ……。思わず脳内で、俎板の鯉よろしくベッド上でいきなり裸の性器に手で触れられる状態を想像してしまったけれどそうではないらしい。「みなさん、読書は好きですか? 読書の好きなお客様、よろしければ僕と遊びましょう。ご予約いただいたお客様に、僕から”宿題”を出します。ちゃんとやってこなかったら……それは会ってからのお楽しみ。」机に積んだ本の上に顎を乗せ頬杖をつく、眼鏡をかけたホクロの青年の写真も添えられていた。かなり引き気味に、さらに窓からの逆光ではっきりした顔立ちはわからないように撮られている。ブログを読むたびもう何百回と、あの穏やかな(でも下腹と鼓膜に心地よく余韻の残る)声色を反芻している。今こそ予約してみるか? いやいやあたしみたいな女が、とブログを閉じようとした瞬間、写真をもう一度見た。積んでいた本に目が止まって驚いた。てっきり撮影用のハリボテ洋書かと思ったら本物だった。『谷崎潤一郎全集』。地元でも有名な四流大学に通った学生時代にスノボサークルの先輩たちから「あのおじいさん教授の授業、楽だから」と教わって取ったら面白くてどハマりした谷崎潤一郎。同じ授業を取る友人たちからは「何が面白いの」と言われつつ長編の細雪も読破した。おじいさん教授の授業は出席を取らないことで有名だったのに、あたしだけがどれも皆勤賞でレポートは全てA評価だった。あぁ。少女に刺青を施して魔性の女に仕立てる『刺青』や盲目の恋人同士の密な世界を描いた『春琴抄』、ファムファタルに人生を狂わされる男の『痴人の愛』……確かに、濃厚接触やいわゆる直接的な性行為とは違う官能の世界があった。それでそれで、宿題ってなに。この本は青年の私物なんだろうか。知りたい一心で、思わず予約メールを送ってしまった。  「みさこさん初めまして。ご予約いただきました直樹です。」返信メールには待ち合わせの場所を指定してほしいとあった。知人に見られたくないので普段の生活圏から外した、降りたこともない駅前の喫茶店を指定した。続いて明後日に”宿題”をメールするのでしっかり準備しておくこと、そして好きな小説を教えてほしいとあった。折り返し返信をしてから一時間後、あたしはドラッグストアで美容液とシートマスクと口腔洗浄液を手にとっていた。やばい。一週間後には直樹に会う。異性に会うために身だしなみを気にするのはいつぶりか。もう体型はあきらめるので、せめてぱっと見だけでも少しましになりたい。明日はパートがないので、美容院も予約しておく。  美容院で髪をカットし、ちらほらある白髪は自分で染めた。娘たちと温泉に行った時以来でコンタクトを入れてみた。夫と娘に訝しがられないよう、新しい下着とワンピースは乾燥機で乾かしてすぐクロゼットに仕舞った。それにしても身体が軽い。土日連続のパートのヘルプもどうと言うことなく、帰宅してから娘たちの好きなライスコロッケとラザニア、かぼちゃポタージュを上機嫌で仕上げてしまった。我ながらわかりやすい、怪しまれないようにしなくてはと思いつつ、気づけば鼻歌まじりで食器を洗ってしまっている。  夕飯の後片付けをしていると、直樹からの”宿題”が届いていた。「お恥ずかしいのですが、僕の書いた小説です。そんなに長いものではないので当日までに目を通しておいてください。」”宿題”はテキスト形式で添付されていた。トイレに入って、こっそりとファイルを開く。主人公があたしの名前になってる官能小説だった。ぎゃっ。とてもじゃないけど家族のいる間は読めない。のぼせる顔色を誤魔化したくて、下の娘と入れ替わりでお風呂に入った。  翌日は月曜日で、出勤ギリギリまで何度か直樹の小説を読んだ。文字を追ってるだけでクラクラする。そして店には例によってシジミ女が来店していた。なんと直樹が同伴している、どうしよう、でもよく考えたら向こうはあたしの顔も苗字も知らないので、平然と接客をする。オーダーはシジミ女はやっぱり今日もおろしハンバーグ、直樹もチーズハンバーグプレートだった。こんな日に限って雨のせいか暇なものだから会話が目と耳に入ってくる。「久しぶりね、」とかなんとか言いながらシジミ女の指が直樹の右手の甲を撫でている。嫌だ、触らないでほしい。明後日は二時間だけその手があたしのものになる。  翌日も出勤まで小説を読んだが”宿題”がなんなのかが一向にわからなかった。まさかこの内容を一部始終再現するわけでもないだろう。粘膜接触どころか本番行為まであるので、それは考えづらい(このコースでなくても、本番行為はもちろんNGだ)。一般的と言うかなんと言うか、恋人同士のとてもロマンチックなベッドシーンだった。ただ主人公があたしの名前で呼ばれているのでもう、読んでいるだけでやっぱりふわふわ酔ったような心地になる。  果たして水曜日はやってきた。午前中に家事を全てやっつけ、軽くお昼を食べた。ドレッサーに向かって髪をコテで巻いていると、小さな戸惑いが湧き上がり渦を作っては消えた。あたしは一体誰で、何をしでかそうとしているんだろう。でも行かない選択肢はなかった。代金はもう振り込んでいる。別にセックスするわけでもないし、嫌ならお茶だけして帰って来ればいい。カシュクールタイプの深い緑色のワンピースに、怪しまれないようコートはいつも着ているトレンチコートで行こう。  待ち合わせの喫茶店に五分前に到着すると、直樹がもう座って本を読んでいた。座席に案内されて挨拶をする。初めましてみさこです。まさか気づかないだろうとは思っていたけど、ファミレスで接客していたことはバレていないようだった。テーブルの上に、あの右手があった。きれいな青い血管と、二つのホクロ。思わずじっと見つめていると、直樹が視線に気づいた。「ホクロ、生まれた時からあるんですよ。こうやってつまむと、ほら、ゾウの顔。」二つのホクロが目、つまんだ皮膚の部分が鼻だ。随分すべすべした質感のゾウが現れた。真面目な調子でのセリフに意表を突かれて笑ってしまった。「笑うと可愛いですね」「笑わないと怖い?」「笑ってないときは、美しいです」冗談もお世辞も同じ調子なので感情の起伏が読めない。もともと穏やかなのかもしれないし、奥に激しいものが潜んでいるようにも見える。  コーヒーを飲み終わるまでは小説の話をした。最近読んだ韓国のフェミニズム小説について。直樹は源氏名の由来を教えてくれた。「僕は小説を書いてるでしょ、オーナーが『じゃあいつか賞取れるように直樹ね』って。簡単でしょう。」「直木、じゃなくて直樹なの?」「芸人さんのあの人ですよ」「あ。そういうこと。」言われてみると、静かにとぼけたことをいう会話の間合いが似ていなくもない。  「さて。行きますか?」直樹は食事にでも行くかのように平然と席を立ち、レジへ向かった。  JRの駅の裏手にラブホテル街があるのは知っていたけれど、昼間からこんなにも人通りがあるとは思わなかった。このご時世でもどこも同じか。それに、もはやこの状況ではあたしも人を嗤えない。マスクをしてはいるけれど不安なので髪の上からマフラーを巻く。直樹がホテルに入ったのを確認してあたしも続いた。「ここでいいですか?」4500円の部屋のボタンを押す。呼吸が浅くなって、自分の鼓動が聞こえて来そうだ。あたしは一体誰で、ここはどこだろう。廊下を進む一歩一歩に全く現実味がなかった。  部屋はビジネスホテルかと思うような、シンプルな作りだった。真ん中に紺のカバーのかかったダブルベッド。お風呂の準備してきますね、あ、でも今日は大事なところには触らないから、僕は先にシャワーを浴びるけど、みさこさんは入ってきてもこなくてもどっちでもいいです。とあたしが脱いだコートをハンガーに掛けてから直樹がバスルームへ向かった。あまりの緊張で、冷蔵庫からビールを取り出しベッドに腰掛けて一気に飲んだ。シャワーから出て来た直樹に「良かったらどうですか?」と聞くと「ショートコースのときはだめなんです、お泊まりコースなら大丈夫だけど」そうか。確かにここで勧めるのは、客の立場でも失礼だったかも知れない。「みさこさん、緊張してるんですね」隣に座りはしても、触れてこない。ふんわりと甘い香りがするのは香水か、洗剤だろうか。「”宿題”、ちゃんと読んできました?」「何度か」「おー、真面目。優等生だった?」「まぁね」「得意科目は」「こくご。あと美術かな。」「じゃあ、これ音読して。」手渡されたのは、”宿題”をプリントアウトしたものだった。  「上手に読めなかったら、僕の言う通りにしてもらいます。いい?」顔を覗き込み、いたずらっぽく微笑んだ。近くで見ると瞳の色素が薄くて、どことなく儚い雰囲気がある。  『みさこは口移しで彼に一粒のチョコレートを……』声が小さいよ、三角座りして?『それからゆっくり舌を差し入れ……』ゆっくりと、だよ。脚縛るね(ハンカチでゆるく足首を拘束された)。『思わず彼の髪をクシャクシャと掴みながら、みさこは喉を反らせた』鷲掴みながら、ね。うつ伏せになって。態勢を変えるときに、スカートの裾がめくれ上がったのを直そうとすると、だめ。続き読んで?『背中を汗が伝ってくるのが、みさこ自身にも、わかった』また声が小さくなってるよー、右手貸して。直樹はあたしの右腕を背中で固定した。あたしは”宿題”を左手に持って続きを読む。『奥が熱い。ふぅ』ふぅなんて書いてないよー?左手も禁止。あたしの両手は背中に回され、それを右手ひとつで拘束したまま、直樹があたしの顔に落ちてくる髪を左手で耳にかけた。あたしはベッドカバーの上に”宿題”を置いて読み続けた。『彼のペニスが、みさこの、あ』あ?もうー、腕も縛るね(そう言ってもう一枚のハンカチでゆるく手首を縛った)。  全部を読み終わった頃にはワンピースの胸元がはだけ、裾は太ももまで捲れ上がっていた。直樹はまたいたずらっぽく微笑むと少し身体を後ろに引き、ため息とも呼気ともつかない息をゆっくり吐きながらあたしの全身を見た。「スリップの緋色と肌の色が合ってて、すごくきれい。フクシアの花みたい」  頭の芯がじんじんした。「ご褒美だよ、」と言って直樹はさっきの喫茶店で買ったモンブランをひとくち、フォークであたしの口に運び、髪を撫でた。  ハンカチの拘束跡は全く残っていなかった。この小説に続きがあるのかと尋ねたら、「また次にお会いできれば書きますよ。みさこさんと遊べて、僕はすごく楽しかったです。」  髪もメイクもほとんど乱れていなかったので部屋を出るのに時間は掛からなかったが、まだ頰が上気しているのがわかった。あたしたちはロビーで手を振って別れた。自動ドアがあたしひとり分の間合いだけ開き、そして閉じたのを背中で感じる。12月の午後の外気の冷たさで目がとても潤んでいることに気づく。    あたしたちがしたことを何と呼べばいいんだろう。誰かが今日のあたしたちを見れば、直接の性行為よりもずっと穢らわしいものに映るか、意味のわからない間の抜けたものに見えるかも知れない。それにせいこうい、って。あたしたちはただ、遊んだ。それだけ。子どもの頃、仲良しのお友達と遊んでいるといつの間にか生まれた二人だけのルール、どうしてだか口外しちゃいけないあの甘い空気を、あたしは思い出していた。  駅前の本屋で新刊の小説を買った。夕飯のビーフシチューは仕込んであるから、知らなかった物語をたっぷりとあたしの中に通す。 (完)
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