コアラのいない動物園

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 夜中に目を覚ますと、枕元にいるはずのブライス人形を探す。ブライスの睫毛を指でなぞって、髪をくるくると指に巻きつけていると安心してもう一度眠れる。ブライスがいつでも側にいてくれる、コアラのぬいぐるみのマーキーが居なくなってしまってからは。夜中に目が覚めてしまうことは少ないのに起きてしまったのは、明日が金曜日で、ピアノのレッスンがあるからかもしれなかった。  「学校から帰ったら、レッスンのあと、先生とアイス食べてね。紅茶も冷やしておくから、ちゃんとお客さん用のグラスで出すのよ。棚の」  登校前の玄関でママが、お弁当を渡しながら言うのを遮った。
 「上から二段目の、背の高い薄いグラスね。わかってる」  リュックにお弁当をしまい杖を持ち、軽くハグをして玄関を出る。夏の初めの日差しが腕に当たるのがわかる。エレベーターまでは15歩。壁を撫でて下向き三角のボタンを押す。  わたしがバスに乗ると、杖に気づいて座席を譲ってくださる人がいる。お年寄りだったりすると申し訳ないから、ありがとうございます、すぐに降りるので、と制して座っていてもらう。わたしには毎日のやりとりだ。そして実際、わたしの家から地下鉄の駅まではバスで五分とかからない。  わたしは盲学校に通っている。春から高等部に上がった。あんまや鍼の勉強ができる理療科か普通科かで悩み、進学も考えて普通科に進んだ。大学にいく余裕が我が家にあるのかどうかわからないけれど、多分パパは(と言うかパパの実家は)進学のためのお金なら惜しまず出してくれるだろう。  それよりも今日はレッスンだから先生に会える。先生のいたずらっぽい高めの声と、夏になって少し濃くなった匂いを思いかえす。汗と、洗剤と、整髪料とミントガムの匂いが混じったあの気配と指の形と声。それと柔らかな間合いが、わたしの中の先生だ。プールの時間も、お昼ご飯のサンドイッチを食べている間も、なんども思い返していた。今日こそ先生の喉仏に触れたい。  汗だくでうちに帰って、すぐにエアコンを入れる。着ていた物を全部脱いで、水着やお弁当クロスも外して洗濯機を回し、シャワーを浴びる。髪を丁寧に洗う。自分の髪の手触りは好きだ。触って欲しい、と思う。誰に。子供の頃から髪と声を褒めてもらうのは嬉しかった。声も髪も、気持ちを配るとその分艶が出るのが自分でわかるから。  髪を乾かしてから、昨日洗っておいたお気に入りの麻のワンピースにからだを通す。布のなかでさらさらとからだが泳ぐ感じがとても好きだ。デリケート衣類用の甘い香りが漂うのも嬉しくて、襟元をぱたぱたしてなんども嗅いでしまう。  姉の夏希が春に東京の大学に進んで寮に入ってから、ママと二人暮らしになってしまった。ママは仕事で遅くまで帰ってこないので、ピアノのレッスンの時は先生と二人きりになる。どうやったら距離を縮められるのか、近頃はそればかり考えてしまう。先生は22歳の音大の院生、わたしよりはずっとお兄さんで、手の甲にほくろがあって、健常者で、きっと想像しきれないぐらい、いろんなことを知っている。レッスンではお互いの手に触れることはよくあるけれど、身体の他の部分についてはほとんど知らない。声が聞こえる角度からすると背はさほど高くなくて、指の骨の現れ方からすると多分痩せ型。  姉がまだうちにいた頃、先生がうちの本棚を見て話していたのを聞いて、わたしは小説の世界に浸るようになった。夏希ちゃん、谷崎潤一郎なんか読んでるんだ、おませだなー、とからかっていたので、学校の図書室で探したらタニザキの点訳図書はありませんと言われた。どうしても読みたかったので教えてもらった通り大きな図書館に行き、音訳されたカセットテープを聴いた。「刺青」。「秘密」。「痴人の愛」。アナウンサー調の堅いナレーションで語られるのがあまりに似合わない物語を、時間を忘れてしまうぐらい夢中で追った。ママに知られると恥ずかしいから、レッスンがある金曜以外は図書館に通って片っ端から聴いた。  「春琴抄」は、盲目の美しいお嬢様・春琴と、奉公人の佐助のお話だった。春琴はどうやって佐助を誘ったのだろう。わたしも先生と一緒に過ごす時間がもっと長ければ。  インターホンが鳴った。小走りしたいのを抑えてゆっくりと玄関の鍵を開く。こんにちは。先生の気配の向こうで、確かに今年初めての蝉の声が聴こえた。今日も二歩分の間合いが開いている。先生がピアノの前にカバンを置くおと。わたしはキッチンに入って、アイスティーを出すためお客様用のグラスに手を伸ばす。  そのとき、背中で何かがごそごそと動いた。親指の先ぐらいの、大きくはない虫が肩甲骨のしたあたりを這っている。さっきワンピースを取り込んだときについていたのか、着た後で入り込んだのかわからない。小さく悲鳴をあげてしまったのを聞きつけて先生が駆け寄ってきたときには、驚いて膝の力が抜け、床にへたり込んでしまっていた。  「背中に虫がいて」鼓動が早くなっているのを鎮めたいのにどうすることもできない。虫が腰の方へと這い進むのでまた悲鳴をあげてしまう。先生が近くにいるから、余計に鼓動が早くなっていく。先生は一瞬ためらってから、「なかに手を入れても大丈夫?」と言い、わたしが頷くのとほぼ同時に背中からするりと手を入れて虫を捕まえた。  「カナブンだね」ふ、と笑って先生は中に虫がいるらしい拳をわたしの耳に近づけた。ぶぶぶ、と籠もった羽音がするのでまた悲鳴をあげる。なんの余裕もなくなったわたしは思わず先生に抱きついた。額のあたりに先生の喉仏がある。腕の内側の皮膚に、じんわりと自分のじゃない汗を感じる。シャツの襟元に頰を埋め深く呼吸すると、先生の匂いが肺の隅々まで行きわたる気がした。鼓動が鎮まるのと入れ替わりに湧き上がってくる甘い感情。わたしのひたいが先生の喉仏に当たっている。あごをあげ、喉仏にわたしの鼻筋、それから唇を這わせていく。まつげの先に剃り残したらしい髭の感触があった。先生はほんの一瞬だけためらったように腕の筋肉を強張らせたがわたしに唇を重ね、少し首の角度を変えて深く吸った。手の中のカナブンがまた羽音を立てたので、中断して窓の外に逃がしにいった。  ベランダのサッシを閉め、カーテンを閉じるおとがした。先生の手を取って、わたしの部屋へ。わたしのベッドにはブライスがいるから、使っていない姉のベッドに誘導する。腰掛けると、どちらからともなく唇を求めあった。ほかの人がどうするかなんてわたしは見たことがないから、ひとつひとつ先生の真似をする。頰の内側を舐めたり、舌と舌を重ね合わせたり。先生はワンピースの裾を捲り上げて太ももをすっと撫でる。余裕があるふうなのがちょっと癪だった。わたしは先生のシャツのボタンを引きちぎりそうな勢いで外していった。誰かの服を脱がせるのは初めてだった。それから身体のいたるところに唇を這わせながら、頭の中に先生の地図をつくった。首筋、肩口、脇の下、胸、肋骨をたどっておへそのあたりまで、それぞれ匂いも肌の質感も体毛の生え方も違う。飼っていた猫を仰向けにして、匂いを毎日嗅いでいたことを、頭の片隅で思い出していた。  盲学校でも(今にして思えばむしろ盲学校だから、なのかもしれない)性教育の授業はあったし、ママも娘二人にうるさかったのでわたしも避妊にコンドームを使うことを知っていた。先生は袋から取り出してつけるところまで全てわたしに指を添えさせてくれた。付いていることを触れて確かめられるのは嬉しい。また深く唇を重ねて、先生の指がそっとぬかるみを撫で始める。自分以外のひとの指が初めて触れると自分でも呆れるほど開いてゆき、じれったい速度でゆっくりと奥を探った。  先生はレッスンの時と同じく力を抜かせるのがとても上手だった。先生自身もたっぷりと息を吐きながら呼吸をカウントしてわたしのりきみを解いていく。コンクールの前に教えてもらった呼吸法だった。先生はほんの僅かずつわたしの中心を進みながら、少しでも力が入ると動きを止めて呼吸をカウントする。おかげで聞いていたほど痛くはなかった。
 セックスにおいてわたしの障害は何のハンデでもなかった。男の人の体を知っていくのが、ここまで楽しいとは。普通科ではなく理療科に進めばもっと深く人の体を探れたのかなと思う。でもこの楽しさは男の人全般ではなくてきっと、先生の、だからだろう。  脱ぎ散らかした下着や洋服を探していると、ベッドの片隅にぬいぐるみがあった。触れた時の毛並ですぐにわかった、コアラのマーキーだ。「こんなとこにいたのね」思わず両手で抱え話しかけてしまい恥ずかしかった。  小学生の頃、パパとの面会日は動物園に行くことが多かった。見えないわたしには退屈だろうとパパは言ったけれど、姉はいつも動物園をリクエストした。見えなくてもわたしには動物園は楽しかった。パパが一緒だし、動物の鳴き声や匂いが次々にやってくるのが面白かった。あの頃は光が見えたのでアシカ舎やペンギン舎の水面がきらきら反射するのも。段差の少ない道の舗装も歩きやすかった。  コアラ館行こうよ、と姉が駆け出していったのをパパが声で制した。ちょっとここで待っていなさい、と売店に行き、わたしと姉にぬいぐるみを買ってくれた。姉にはシロクマを袋に入ったまま渡し、わたしには取り出して抱かせてくれたのが、コアラのぬいぐるみだった。  三人でコアラ館に入ると、父がぬいぐるみを使ってコアラの様子を教えてくれた。あまり口数の多くなかった父が声色を変えて「コアラのマーキー」になっていた。アニメのような声色で「ぼくはユーカリが大好きなんだ」なんて話すパパを、やめてよ恥ずかしい、と姉は嫌がった。けれどパパが命を吹き込んでくれたマーキーは、しばらくわたしの親友になった。  数ヶ月後、学校から帰るとマーキーは忽然と姿を消してしまい、わたしは3日泣き通した。あれから何年経ったのだろう。姉が不在のこのベッドの片隅に置き去りにされてしまっていたのだ。思いがけない再会に嬉しくなって、先生にそのことを話すと「そうかー、あの動物園のコアラはいなくなっちゃったもんね。ここにいたのかぁ。こんど返しに行ってあげる?」と意外とメルヘンなことを言った。えっ先生って、そういうキャラだったの?と茶化すと横腹をくすぐられた。  それからわたしは、ときどき姉のベッドで眠るようになった。わたしのベッドの上から、ブライスが嫉妬深く見つめているのを確かに感じた。
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