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一、
なるべく人混みを避けながら電車を乗り継ぎ、舞台を見るため久しぶりに大きな劇場へとやってきた。
観劇は基本的にいつも一人で、二階にある大ホールのエントランスへと繋がる広くて大きな階段を隅から隅まで見渡した。この瞬間がたまらなく好きだった。
開演までの時間にそれほどの余裕はない。ぎりぎりというほどではないが、ゆったりしている時間もないという、絶妙な間合いで毎回到着し、大ホールに入場する前に先にトイレを済ませる。その後入場し着席してまもなく公演が始まる、といった流れがルーティーンになっていた。
絵本から飛び出してきたような豪華な階段は、シンデレラがガラスの靴を落とすのにはもってこいのシチュエーションだったが、とうてい走る気にはなれないなと森瑞貴は階段を見上げながらげんなりした。
足早に階段右端にあるエスカレーターまで歩き、悠々と右足をそれに乗せ、続けて左足も乗せて移動する。
階段を駆け上がりたくなるような衝動が湧き上がっていたのはいつの時代だったろうか。いつ瑞貴の中に存在していたのか覚えていないくらい、遠い彼方の出来事に思えた。そもそも最初からそんな衝動が存在していたのかさえ怪しい。
エスカレーターから降り、そのまま急ぎ足で男子トイレへと向かっていたそのときだった。
「……先生!」
誰かに呼び止められた気がして立ち止まる。しょっしゅう来るこの劇場付近で知り合いに会った経験もなかったので、少し挙動不審ぎみで振り返ると、そこにはどこか見覚えのあるあどけない笑顔があった。
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