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妖精が見えた元三十路童貞の話 ※
〈成瀬編〉
シャワーから出ると、雪がぶつぶつ喋っていた。
妖精か。ほほえましい。
濡れた頭をタオルで拭いながら、冷蔵庫を開ける。
「……うん、全然、問題ない。いらんって、大丈夫やし送らんでいいよ」
缶ビールをつかんで、動きを止めた。今なんか、おかしなイントネーションだったな?
「なんも。全然変わらんし、仕事も普通。うん……、え、いつ? いや、来んといてや、忙しいんやって、……うん、土日も忙しいから。ほんとやって、……は? しとらんし、なんでねんて」
妖精との会話じゃなくて、電話らしいと気がついた。缶ビールをそっと取り出して、冷蔵庫を静かに閉めた。おそらく家族と電話をしているのだろう。
口を押え、笑い声を噛み殺す。なまっているのが、めちゃくちゃ可愛い。
「彼女はおらんけど、彼氏はおるよ」
持っていた缶ビールが手から滑り落ち、足の甲を直撃した。
「いっ! ……てぇ!」
叫んで飛び上がる。うずくまってひとしきり悶絶していると、雪の声が上から降ってきた。
「大丈夫?」
「……折れた」
「救急車呼ぶ?」
「いや、いい。……今の電話、誰?」
「兄です」
「あー、兄貴いんの。へー……、あ、方言可愛い。どこの出身だっけ。東北だっけ?」
「……北です」
「北って。ざっくりすぎんだって」
「成瀬さん。今の、忘れてください」
肩にかけていたタオルを俺の頭にかぶせて、強引にガシガシしてくる。
「今のって? もしかして、北って半島か?」
「違います、方言です。恥ずかしいんですよ。聞かれたくなかったのに」
忘れろ、忘れろ、と耳元で囁きながら、タオルで頭を揉んでくる。あー、可愛いなー。とほだされている場合じゃない。
「雪」
手首をつかんで、動きを止めた。邪魔なタオルを払いのけると、目の前には頬を染めた雪の顔。とりあえず、キスをした。チュウチュウ音を立てて唇を吸ってから、「お前、さっき」と思い出したように言った。
「彼女はおらんけど彼氏はおるよって」
「なまりを忠実に再現しないでください」
「お前、兄貴にあんなこと言って、どうすんだよ」
「どうするとは?」
雪は、キョトンとしている。つられてこっちまでキョトン顔になってしまう。
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