始まったばかりの二人の話

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始まったばかりの二人の話

〈築城編〉  今日は、わりと早く帰ってこられた。なんと、まだ九時台。快挙だ。  鍵穴に鍵を差し込むと、頭の上で妖精が言った。 「となりの男がお前の帰りを待っているぞ」 「え、そうなの?」  鍵を抜いて、自分の部屋には戻らずに、となりのドアをコンコンと叩いてみた。速攻で、ドアが開く。 「お……、おかえり」 「ただいま」  成瀬さんの顔を見て、ホッとする自分がいる。頬が緩んで、へらへらと笑ってしまう。にやにや、のほうが近いかも。 「メシ、食った?」 「まだ。冷凍のチャーハン温めて食べようかなって」 「うちで食ってけよ」 「いいの? やった」  彼の部屋は、いい匂いがした。美味しそうな匂いだ。 「これは、肉じゃがかな?」 「正解。あんた、犬か?」 「わん」  返事をして、通勤カバンを部屋の隅に置き、うあーとおっさんくさい声を上げながら腰を下ろす。  ローテーブルには二人分の箸と、冷ややっことほうれん草のおひたしが置かれている。  すごく、ちゃんとしてるなと驚いた。 「成瀬さんすごいな。一人暮らしなのにこんなにちゃんとしてて」 「別に、普段こんなんじゃねーし」 「あ、俺のために作ってくれた?」  成瀬さんは答えずに、コンロに火をかけた。聞こえなかったのか、照れているのか。どっちだろう。無言の背中を見て、自然と微笑んでいた。  本当に、妙な感じだ。名前も知らなかったただの隣人なのに。いつも怒っていて、怖いなという印象以外になんの感情も抱いてなかった。今は、とても親近感を覚える。  背中を見て、好きだなあと思った。  なんでだろう。  たとえば、電車のあの眼鏡の人と、セックスをしたとして。同じふうに、彼を好きになっていただろうか。  想像してみると、ちょっと身震いが起きた。  そもそも、彼とセックスできるかと言えば、難しい気がする。誰でもいいわけじゃないようだ。ただそれは、成瀬さんとこうなったから、無理だと感じるだけで、彼が最初の相手なら、やはり彼を好きになっていたかもしれない。  わからないが、タイミングは大事だ。妖精は消えなかったが、現状に不満はない。  成瀬さんが好きだ。 「肉じゃがなんて俺作れないし。すごいです」 「すごいかどうかは食ってから判断しろ」  ほかほかと湯気を上げる、ご飯とみそ汁と肉じゃががテーブルに並ぶ。なんという素朴で、でも幸せで、温かい食卓なのか。 「言い忘れてた。おつかれ、仕事。ビールかなんか、飲む?」 「いえ、悪いので」 「明日、帰りに酒買ってきて補充してくれればいい」  言いながら、冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出して、テーブルに置く。これで完璧だ。 「いただきます。成瀬さん、あの」 「何」 「ありがとうございます。仕事から帰って、あったかい部屋で、あったかいご飯作ってくれてて、嬉しいです、すごく」 「……別に、ついでだし」  普段こんなんじゃないって、言ったくせに。  笑って、肉じゃがを口に運ぶ。 「あ、すごい、味が染みてる。美味しい」 「先に砂糖とみりんだけで煮ると味が染みる」 「そんな顔なのにすごいなあ」 「どんな顔だって」 「うわ、みそ汁美味しい。この冷ややっこ、上のこれは大根おろしに何か入ってる?」 「梅干し。かかってるのポン酢」 「さっぱりして美味しいです」  空腹だったのもあるが、とにかく美味しかった。あっという間に完食して、空の食器と成瀬さんを拝む。 「ごちそうさまです、ありがとうございます」 「ビール、忘れてんぞ」 「あ、ほんとだ。ご飯があまりに美味しくて」 「酒入れば、羞恥心が消えんだろ。飲めよ」 「ん?」  缶ビールのプルタブに指をかけ、動きを止める。 「あ、あー……、セックス、します?」  指に力が入らなくなり、プルタブが引けない。カシ、カシ、と間抜けな音がする。  勢いで関係を持った次の日、セックスを試みたのだが、シラフだとどうしても照れてしまい、挿入には至らなかった。  でも、愛撫とキスだけで充分気持ちよくて、体を繋げずに、二回イッた。一方的に、二回、イカされた。イクたびに感動したし、好きだと思ったし、繋がりたい、成瀬さんにも気持ちよくなってもらいたいと思ったが、「抱かれる自分」を真正面から受け止めることができなかった。  多分、慣れるまでは、酔わなければいけない。酔えば、自分の痴態を俯瞰(ふかん)して見ることができるから、羞恥心が消える。 「缶ビール一本じゃ酔えないし……、ていうか、蓋開かない。おかしいな」 「ひ弱だな。あんた女子か?」  俺の手から缶ビールを奪って、成瀬さんが開けてくれた。こんなことで乙女みたいに胸がキュンと鳴る。 「ありがとう、ございます……」 「なんか、つまみがいるな」  成瀬さんが腰を上げる。キッチンでがさごそとつまみを探す成瀬さんの背中に「そうだ」と言った。 「漫画、買ったんですよ。成瀬さんの漫画。ネットで注文したんで、明日くらいに届くかな」 「はあ? なんで、買うなよ。ていうか、見るなよ」  ペンネームを聞き出してすぐに、ネットで既刊全部を購入した。当然、どれもエロ漫画だ。成瀬さんのキリリとした容貌からは想像もできないほど可愛い絵だった。可愛い女の子が、ほぼ全裸で汁にまみれた表紙が多かった。衝撃を受けながら、これをあの強面が描いたのかと思うと妙に興奮し、漫画をカートに入れるだけで勃起してしまった。 「読んだら成瀬さんのこと、もっと理解できるかなって。性癖も知りたいし分析したいんです」 「柿の種があった」  六袋入りのパッケージを開封して、中から一つ取り出し、俺に投げてくる。キャッチして成瀬さんを見上げた。 「顔が赤い」 「うるせー、見るな」 「俺、これピーナッツ好きじゃなくて。成瀬さん、あーん」  ピーナッツをつまんで準備すると、身を屈めた成瀬さんが指ごとぱくりと噛みついてきた。そして、そのまま覆いかぶさってくる。 「あの」  ちゅ、ちゅううううと首を吸う音が聞こえた。 「あー、ダメ、待って、まだ、これっぱかしも、酔ってなくて」 「大丈夫。後ろからやるから」 「後ろからやる?」 「バックでやれば、顔も見えねーし、恥ずかしくない」 「バック」  四つん這いになって、腰をつかまれ、後ろからパンパンとぶつけるあれだ。顔を覆って「無理」とうめいた。 「できるから。早く、なあ、後ろ向けって」  俺の体を裏返そうとする成瀬さんの鼻息が荒い。おかしくなって、笑いながら、「あれ」と急に思い出した。 「妖精がいない」  そういえば、この部屋に入ったときからいなかったかもしれない。 「あいつにはわかってたんだよ。今からセックスするってな」  成瀬さんが俺のベルトに手をかけた。  顔が、果てしなく熱くなる。  俺たちは、今からセックスをするらしい。 〈おわり〉
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