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始まったばかりの二人の話2 ※
〈成瀬編〉
ベッドに突っ伏した背中が、上下している。
四つん這いの後ろから挿入し、抜き差しをしながら前をこすってやった。何度も吐き出された精液で、手のひらが、濡れている。濡れた手で優しく包み込み、先端をこねていると、「ダメ」と手首をつかまれた。
「なんか、おしっこしたくなってきた」
おしっこ、という単語に首の裏がゾクゾクした。
「ここでしろよ」
興奮して手の動きを速めると腰をうねらせ、泣き声を上げた。
「もう、抜いて」
振り向いて、懇願する濡れた瞳が俺を見る。腰を引かざるを得ない。
尻に埋まっているペニスが、ずる、と抜けていく。動きを止めた。めくりあげたワイシャツが、汗で湿って張りついている。むき出しの尻から、ペニスが抜けていく構図が、激しくエロい。これはいい。あとで描こう。
尻から抜け出たペニスは、精液を溜めたコンドームを嵌めたまま、ビクンと上向きに跳ね、自分はまだやれると主張している。
「終わり?」
手のひらをティッシュで拭い、コンドームを処理しながら訊いてみた。返事はない。無言でシーツに顔をうずめている。耳が赤い。シラフだから、どうしても理性が先に立つのだろう。
「……成瀬さん」
「何」
「顔が見たい、です」
うつ伏せになって尻を出したまま、上ずった声で言った。可愛くて死にそうだ。隣に寝転んで、顔を寄せる。髪が汗でひたいに張りついている。よけてやりながら、訊いた。
「シラフでも気持ちよかった?」
「気持ち、よかったです……、はい、すごく……。セックスって、すごいですね」
赤い顔で照れ笑いされたら襲いたくなるのでやめてほしい。可愛いな、と歯ぎしりをする。
「え、なんか怒ってます?」
「別に」
「俺、もっと話しがしたいです。成瀬さんのことを、知りたい」
「それは、俺も」
「人のこと知りたいって思ったことなかったかもしれない。すごいですよね、好きな人は別なんだなあ」
好きな人、というのが俺を指しているのだと思うと胸が震え、危うく変な声が漏れるところだった。んんっと咳ばらいをしてから慎重に口を開く。
「……俺だって、知りたい。あんたの下の名前、なんての?」
以前、間違って郵便物が届いたことがあった。宛名は「築城雪」となっていた。素直に「ゆき」と読むような気もしたが「せつ」もありだ。ただ、「ゆき」という発音が、私的に気に入っていた。ゆきじゃなくてもゆきと呼びたい。
「ゆきです。雪が降るの雪」
ゆきだった。気づかれないように、小さくガッツポーズをした。
「名前教えたんだし、あんたじゃなくてちゃんと雪って呼んでくださいよ?」
「ゆ、雪」
「はい」
ゆき、ゆき、と口の中で何度も呼んだ。いいのか、いきなり名前で呼んでも。付き合うって、そういうものなのか。
「成瀬さん、下の名前なんていうんですか?」
「和虎。平和の和に、タイガーの虎」
「うわー」
「なんだよ、キラキラネームだってか」
「いや、カッコイイなって。虎さんって呼んでいいですか」
「フーテンみたいだからやめろ」
「漢字が違うじゃないですか、フーテンの人とは」
「俺は和虎さんって呼ばれたい。いや待て、呼び捨ても捨てがたい……。試しに二パターン、呼んでみてくれ」
返事がない。よく見ると、目が開いていない。
「ゆ……、ゆき、雪、さん?」
呼び慣れなくて、照れながら、頬を撫でた。すう、と寝息が聞こえてくる。
寝るか? この状態で?
布団をかけてやるかと身を起こす。一緒になって、ブルンと起き上がった下腹部に視線を落とす。
まだでかいままだ。こすりながら、はあ、と息を吐く。
妖精がいた頃のことをふと思い出した。あいつはいつも、俺のムラムラを俺より早く察知して、「自慰をしろ。おれは出かけてくる」と姿を消した。
ほろ、と涙が出た。慌てて拭ったが、ほろほろと零れてくる。涙をそのままに、右手を上下させた。泣きながら、横たわる半裸の恋人に手を伸ばす。ワイシャツを腰のくぼみまで大きくめくりあげ、美しいカーブを描く尻を見ながら、ひたすら自身をこすっていると、「ちょっと」と膝を叩かれた。
「なんで一人で? まだやり足りない? ていうか、泣いてます?」
「寝てたんじゃねーのかよ、狸寝入りかよ」
最悪だ。泣いているところを見られた。
オナニーを見られるよりよほど格好悪い。
「寝てないです。なんの話だっけ、名前だ。今度から虎さんって呼ぶんでしたっけ?」
「フーテンはやめろって」
「和虎さん」
「……うぐっ」
ハアハア言いながら右手を動かした。
「悪くねーな。もう一回、呼んでくれ。次は呼び捨てで」
「でも成瀬さんのほうが呼びやすいな。成瀬って苗字カッコイイですよね」
素で、「そんな」と悲しそうな声が出た。
「成瀬さん」
のそりと起き上がった雪が、身を乗り出して俺の股間を覗き込んできた。
「え、成瀬さんの和虎さん、大きいですね」
成瀬さんの和虎さん、という表現が面白すぎた。奥歯を噛みしめて笑いを堪える。
「こんなのが俺の中に?」
好きな奴に「大きい」と評価され、さらに息がかかる距離で股間を凝視されたら、絶対に、誰でもイク。
「イク」
真顔で宣言した。
「え、出ます? しまった、ティッシュが遠い。俺の口に出して」
「えっ」
ぱく、と先端に食いつかれ、恍惚の声が漏れると同時にペニスが脈打ち、放出される。
「はあっ、あー、やべー、まだ出てる。ごめん、気持ちいい」
謝りながら、軽く腰を揺する。
「ん、うっ、んんっ」
苦しそうなうめきと一緒に、精液が零れてくる。困ったみたいにハの字になった眉毛が可愛い。はだけたワイシャツの隙間から、行為後の火照った肌が見える。下は裸で、半勃ちになったペニスが見えた。
絶景すぎた。これもあとで描こう。
首を伸ばして股間を見ていると、ゴクリ、とすごい音が聞こえた。
「あ、飲んだ?」
「……飲んだ」
「よく飲めるな?」
「多分成瀬さんのだから大丈夫なんですよ」
胸を押さえ、心の中でうおおおおおおと雄たけびを上げる。
「あ、今、何時?」
「……帰るのか?」
「帰るって言っても隣ですけどね」
「泊まってけば」
「シャワーしたいし、歯磨きしたいし、着替えたいし、明日も仕事だし」
仕事が出てくると何も言えなくなる。
「とりあえず、洗い物してから帰りますね」
そんなのはしなくていい、と言おうとしたが、やめた。ここにいる時間が少しでも長くなるならなんでもいい。ズボンを穿く後姿を見ながら、「俺の皿も洗えよ」とふんぞり返る。
「あ、ビール重い。飲んでなかった、もったいない」
缶に口をつけて、「ぬるい」としかめた顔に無意味にキュンとなる。
「いい。俺が飲むから置いとけよ」
「でもこれ間接キスですよね」
「直接してんじゃねーか」
「そうなんですよね、びっくりです」
でも、まだ全然、片手の指で足りる回数しかしてない。もっとしたいなと思った瞬間、唇に、チュッと吸いつく感触。
通りすがりにやってみた、という軽い感じなのが、熟練の技のようで、頭を抱えてしまった。
抱きしめたい。もっと、キスをしたい。
二人分の食器なんて、すぐに洗い終わってしまう。仕事に備えて早く帰してやりたい思いと、もっと話していたいという思いが交錯する。
「好きな料理とか、食いたいもんねーの、あんた」
「あんたじゃなくて」
「ゆ、雪」
「あ、なんか照れるな。照れますね、なんか」
ワイシャツを腕まくりしながら照れ顔を披露してくれるなんて、なんのご褒美だろう。
「雪」
「はい?」
「ただの呼ぶ練習」
「あ、そう」
雪は、ふいと目を逸らし、スポンジに食器用洗剤を垂らし、黙々と洗い物を開始した。
長年好きだった奴が、うちの台所で、食器を洗っている。並んで立って、洗い終わった皿を、俺が拭く。初めての、共同作業。
なんだ、この幸福な映像は。
「成瀬さんもしかして、明日も夕飯作ろうと思ってます?」
「なんだよ、ダメなのか」
「ダメです」
「な、なぜ……?」
「俺、基本的にすごく遅いんです、帰るの」
知ってる、と合いの手を入れようとして、やめた。ストーカーチックすぎる。
「待たせるのも嫌だし、悪いですから」
「違う、どうせ、起きてんだよ。あんたが、雪が、帰ってくるまで毎日起きて待ってるし、同じことなんだよ」
「え?」
しまった、ストーキングの報告をしてしまった。汚物を見る目を覚悟したが、ちょっと違った。
「いや、寝てください。なんで? なんで起きて待ってるんですか? 意味ないですよね?」
困った顔で、心配そうに言われてしまった。
「ゆ、雪が……」
「はい」
「雪が、無事に帰ってくるまで、不安なんだよ。過労死しないかとか、ちゃんとしたもん食ってんのか、ずっと気になってて。だから、夕飯は作りたい……、いや別に、重いならいいし、作り置きって手もあるし、毎日俺んちに来いって言ってるんじゃなくて、あー、なんつーか、とにかく、雪が、心身ともに健康であればそれでいい」
「成瀬さんって、本当に親切っていうか、おかん?」
「おかん」
「あったかい人ですよね。やっぱり、好きだなあ」
予想外の高評価に驚いていると、俺を見て、もう一度言った。
「好きです、やっぱり」
抱きしめたい。
でも、そんなことを今このタイミングで、してもいいのかがわからない。
「抱きしめていいですよ」
雪が言った。
「あ? なんだよ、妖精か?」
「はい。戻ってきました。すいません、チートで」
「別に……、いいし」
「で、抱きしめないんですか?」
水を止めて、タオルで手を拭い、雪が両手を広げたから飛びついた。
「俺も、好きだ」
「はい。じゃあ、帰りますね」
この飄々としたクールな感じも悪くない。
「ごちそうさまでした」
「おやすみ」
玄関のドアが閉まる。そして、隣のドアが開いて閉まる音。
一人になった。
妖精もいない。
静かだ。
本当に、一人なのだ。
何か、落ち込みそうな気がして、慌てて風呂場に飛び込んだ。それから少し、仕事を進め、時計を見た。もう十二時だ。
寝よう。
コンコン、とかすかにノックの音が聞こえた。こんな時間に誰が、と思ったが、考えられるのは一人だけ。
「忘れものか?」
玄関のドアを開けると、パジャマ姿の雪が、枕を抱いて立っていた。
「一緒に寝たくて。なんか、その、余韻っていうか。今日だけ、いいですか?」
「パジャマが可愛い」
「え、やめて、三十路ですけど」
笑って三十路の手を引いた。
玄関のドアを、閉める。
〈おわり〉
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