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違う!
〈築城編〉
俺はあまり食に関心がない。というか、食べることに重きを置いてこなかった。
朝は必ず食べるものの、昼を抜いたり夜を抜いたりはよくあったし、腹が膨れればそれでいいかという適当なところがあった。
でも今は、夕飯が楽しみだった。人に作って貰うからか、二人だからか。
成瀬さんだからかも。
自分が恋をしているのがいまだに信じられないが、好きだなあと日々実感している。
今日のメニューはなんだろう、と考えながら、帰路につく。
「教えてやろうか? 今日のメニューはな」
妖精が口を挟む。
「こら、楽しみにしてるんだからバラすなよ」
街灯の下を飛び回る妖精に、小声で文句を言う。
「和風ハンバーグか、チーズインハンバーグか、豆腐ハンバーグか。さてどれだ?」
「ハンバーグ一択かあ」
アパートが見えると、早足になった。一旦、鞄を置いて、着替えて身軽になってから行こうかと考えていると、成瀬さんの部屋のドアが開いた。
「本当に、最高でした」
若い女性が出てきた。
火照った頬で、うっとりとした表情をしている。肩にかかる長さの髪は、ふわふわしていて、コートから黒いタイツの脚が伸びている。パンプスのかかとを直す仕草に、わけもなくギクリとした。
「もう、本当にエッチでスケベでぬるぬるのドロドロで、最っ高でした」
「しつけえな。わかったから早く行けよ」
女性を押し出す成瀬さんと、目が合った。
「違う!」
成瀬さんが叫んだ。
「違う、待て、誤解だ」
「いや、何も言ってないです」
俺の頭の上で、妖精が「おっと、修羅場か?」と面白そうに言った。
「どうもぉ、こんばんはぁ。お知り合いですか?」
綺麗な人だった。真っ赤な口紅が白い肌によく映えている。
「ただの隣人です」
彼女の脇をすり抜けて、自分の部屋のドアの前に立つと、コートから鍵を取り出して、鍵穴に突っ込んだ。突っ込めない。なかなか入っていかない。
「雪、違う、聞いてくれ」
廊下に飛び出して、成瀬さんが俺の腕にすがりつく。
「人見知りの先生がなつくなんて、珍しいですね」
「ほら!」
女性を指さして、成瀬さんが言った。
「先生って言ってんだろ。こいつ、アシスタントだから」
両肩をつかまれた。必死な顔に、少し笑ってしまう。そっと、成瀬さんの手をどかして、再び鍵穴に挑戦しながら、早口で言った。
「俺はただの隣人なのでそんなこと言われても」
「……ただの隣人だと?」
「はい、ただの隣人ですよね?」
「セックスするただの隣人なんているかよ」
「ちょっと、成瀬さん」
「へえ、セックス、したんですか」
アシスタントの女性が口に手を当ててつぶやいた。せっかく気を回して、ただの隣人のふりをしたのに。台無しだ。妖精が俺の肩で「プークスクス、プークスクス」と繰り返している。
「ふうん、なるほど、納得です。先生、おめでとうございます」
「な、なんだよ、ニヤニヤすんな。お前は帰れ。早く帰れ。故郷に帰れ」
しっしっ、と追い払われた彼女は、「はいはい」と笑って俺に頭を下げ、踵を返し、去っていった。
「本当に、アシスタントだからな? 誓って、何もしてない。そうだ、妖精に訊けよ、それなら信じるだろ?」
「別に、何も疑ってませんよ」
「はっはっは、動揺していたくせに」
妖精が俺の目の前をうろちょろ飛び回っている。無視して玄関の鍵を開けた。ドアを開いて中に入ると、成瀬さんがついてくる。
「雪」
「わかってますよ。ただ少しだけ、びっくりして。エロとかぬるぬるとか言ってるから」
「それは、俺の漫画の話で」
「わかってます。だって成瀬さん、俺のこと大好きだし」
「うん」
やっと落ち着いたらしい成瀬さんが、ホッと息を吐いて正気を取り戻した。
「あ、雪の部屋だ。お邪魔します」
「はい、ようこそ」
通勤カバンを置いて、コートを脱いで、ネクタイを緩めながら成瀬さんを振り返る。キョロキョロと部屋を見回していて、ちょっと可愛い。
「今日のご飯、ハンバーグ?」
「当たり。なんだよ、また妖精かよ。つーか、今のやり取り絶対面白がってただろ。どの辺だ? ここか? この辺か?」
何もない空中にこぶしを振り回す成瀬さんをしばらく眺めてから、やんわりと言った。
「いませんよ、妖精」
「あ?」
「妖精って、人のセックスを事前に察知して姿消すって知ってました?」
訊きながらスーツを脱ぐと、成瀬さんの体がビクンと震えた。
「いつの間にかいなくなってくれて、便利ですよね。絶対見られないってわかってるから、安心だし」
ベルトを外してそう言うと、成瀬さんが飛びついてきた。
背後には、ベッド。二人の体が跳ねて、重なった。
お互いの唇が、触れ合って、濡れる。
〈おわり〉
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