目を逸らす

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目を逸らす

 首に、何かが見えた。  内出血の痕。キスマークだとは思うが、こいつに限ってありえない。  ワイシャツの襟からわずかに見えるそれを、どうしても確認したくなった。  画面を凝視する築城の脇に立ち、襟に人差し指を引っかけた。 「うわ」  築城が身をすくめ、首を素早くガードして、俺を振り仰ぐ。 「何? 今、何かしました?」 「首を覗こうとした」 「なぜ……」 「築城、彼女できた?」  椅子に座る築城の前に腰をかがめ、声を潜めた。 「いえ、できてません」  部下の築城は、典型的な仕事人間だ。  休みの日は何をしているのかと訊ねると、テレビを眺めてゴロゴロしていると言うし、趣味はと訊くと、寝ることと答える。  彼女もいないと言っていた。顔はいいし、シュッとしていて清潔感もある。モテそうなのになぜか女が寄りつかない。社内の女性社員からの評価は、「目が死んでる」「会話が続かない」「マザコンぽい」「童貞臭がする」と散々だった。 「存在がAIぽい」 「プログラミング言語なら流ちょうに喋りそう」  彼女たちは真顔でうなずき合った。  言いたいことはわかる。少し会話をすれば、他人に関心がない男だとよくわかる。  でも、仕事ぶりはとにかく真面目だし、責任感があって向上心も持っている。  俺は築城を嫌いじゃない。淡々としていて協調性はないが、合理主義で無駄がない。高いスキルを持っているし、部下として扱いづらいこともない。悪い奴ではないのだ。  人付き合いが苦手で浮いている築城をなんとなく放っておけず、いつも気にかけていたが、今年に入ってから奇行が目につくようになった。  何もない空間に返事をしたり、ボソボソつぶやいていたり、独り言が目立つのだ。  もし何かの兆候なら、上司として、築城の助けになりたい。 「これ、今日中にバグつぶし終わる?」 「はい、もう終わります」 「おっ、さすが。じゃあ今からメシ付き合って。ちょっと話そう」 「話すって、何をですか?」  警戒されると厄介だ。一旦心を閉ざすと、開くのに時間がかかる。 「いやいやただのランチ。すぐそこにパンケーキの店あるだろ? なんかキラキラしたの。ずっと気になってて、でもおっさん一人じゃ入りにくいしさ」 「おっさん二人のほうが入りにくそうですけど」 「確かに」  思わず納得してから慌てて言い募る。 「パンケーキじゃなくてもラーメンでも肉でもうどんでもそばでもなんでもいいんだわ。築城の食いたいのでいいよ。何食いたい?」 「パンケーキでいいですよ」  築城が腰を上げた。  外に連れ出すことに成功し、とりあえずパンケーキの店に入ってみたはいいが、予想以上に居心地が悪かった。昼にパンケーキなんて、働く男は選択しない。周囲の客は全員女性で、面白そうに俺たちを見てくる。 「なんかすまん」  小声で謝ると、築城はメニューを見ながら少し笑った。 「場違い感はありますね。でも、美味しそうです」 「甘党?」 「スイーツ全般好きです」  上司に気を遣ったとかではなく、本当に好きらしい。三段重ねのパンケーキの上に、なんだかよくわからないフルーツやらアイスやらがゴテゴテに乗っかったやつを注文した築城は、ウキウキして見えた。こいつでも、何かに心を動かされることがあるらしいとわかり、ホッとした。 「それで、お話というのは」  注文を終えると、水を一口飲んだ築城がまっすぐ俺を見て訊いた。 「ああ、うん、特に何ってわけでもないけど、最近どう? 仕事でつらいこととか、人間関係に悩んでるとか、何かあったら相談乗るよ」 「何もないです」 「残業しんどいだろ? 体調は? 眠れてる?」 「もう慣れてますし、特につらくもないし、睡眠も摂れてます」 「そっかあ」  しん、と間が開いた。会話が終了してしまった。  築城は、築城だ。病んでいる様子もないし、むしろ、少し柔らかくなった気がしないでもない。 「あ、そうそう」  キスマークの映像が脳裏によみがえり、これだと手を打った。 「さっき見えたんだけど、ここ」  自分の首筋を指差して言った。 「めっちゃついてるぞ。やるじゃん」 「なんですか?」  築城が怪訝そうに首をかしげた。とぼけている感じじゃない。 「彼女、いるんだろ?」 「いませんよ?」 「いやでもお前それはどう見ても……、まさか風俗か?」 「風俗? あ、彼女はいないけど、先月からお付き合いしている人はいます」 「ん?」 「男だから、彼女ではないですね」 「あー、なるほど」  グラスの中でカランと氷が崩れる音。目を伏せて、テーブルに両肘をつき、ひたいを押さえてグラスの中を凝視する。  話題を見つけたという軽い気持ちだったのだが、とんでもない引き出しを開けてしまったようだ。  普通、隠さないか? いや、やはり築城は多少変わっているから、普通などという物差しで測ることができないのだ。  男と付き合っている。  あのキスマークをつけた男がいる。性的なこととは無縁そうな築城が、男と。  うっかり想像しそうになって、激しく首を左右に振る。  いや待て。今、先月、と言った。築城の様子がおかしくなった時期と、かぶるのではないかと気づき、恐る恐る目を上げた。築城は窓の外を見ていた。 「なあ築城、その男」 「はい?」 「お前の男、その、大丈夫か?」 「おっしゃっている意味がよくわかりません」 「なんというか、無理やり何か、ねえ? ほら、不本意なことされてたり、嫌がってるのに強制されたり、暴力的なこととか……、大丈夫か?」 「いい人ですよ」  嘘をついている感じはしない。築城は俺の目をよどみなく見返してくる。 「……本当に? 助けが必要なら言えよ?」 「なんでそんなに心配されてるのかわかりませんけど、本当にいい人ですよ。すごく大事にしてくれるし、俺もその人の……」  築城が言葉を切って、胸に手を当てた。 「あ、今、すごく、ぶわってきました」 「ぶわってきました?」 「彼のこと考えると、うわー、好きだなあってなるんです」  築城の顔が、ほころんだ。能面が剥がれ落ちた瞬間だった。  目に生気が宿り、頬がほんのり朱に染まる。  なんて顔をするんだよ。  顔を背け、はあ、と息をつく。  まぎれもなく、恋をしている表情だ。  築城が。あの築城が。  よかったなあ、と思うと同時に、靄がかかる。  俺は築城を勝手に理解していたつもりでいた。俺が一番、こいつをわかっているのだと思っていた。誰がどう評価しようが、俺だけはいつでも味方でいようと決めていた。  何かあったときに、築城が頼るのは俺だろうという謎の自信もあった。  ちくしょう、と毒づいた。  多分俺は、嫉妬している。  もちろん、これは恋愛感情ではなく、単純に、寂しい。  築城に、仕事以外の何かがあった。それがこいつを笑顔にしているのならそれでいいのに、俺にはこの笑顔を引き出せなかったのだと思うと、若干悔しい。  口の中の水分を奪われながら、パンケーキをなんとか完食する。会計を終えて店を出た。オフィスビルは横断歩道を渡った真向かいにある。近くて便利だが、二度目はなさそうだ。よく考えなくても俺は甘いものがそう得意でもない。 「そういえば、ついてるって、何かついてます? ここ?」  並んで信号待ちをしていると、築城が自分の首をごしごししながら訊いた。 「とれました?」 「そんなんで落ちないって。だってそれ、……キスマーク」  顔を寄せてこっそり教えると、築城が無言で動きを止めた。その横顔は、まんざらでもなさそうに微笑んでいた。  可愛いなあ、と思った。  思えばずっと、俺は築城が可愛かった。  不器用で、ひたむきで、可愛かった。  幸福そうな横顔から目を逸らす。  口の中が甘ったるい。唾を飲み込むと、胸にチク、とかすかな痛み。  その痛みからも、目を逸らす。 〈おわり〉
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