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桔梗屋に戻った私はいつものように楼主の部屋へと
向かう。
人目のないことを確認してから、中へ声をかけた。
「吉右衛門さん。戻りました。」
「入って。」
音をたてないよう襖を開けて、素早く部屋に身を
隠す。
もうすっかりと慣れてしまったこのやりとり。
吉右衛門さんは帳面を閉じて私に向き直った。
一見穏やかに微笑んで見えて、その漆黒のびいどろのような瞳の奥は底が知れない。
「で、どうだった?
あの客から何か“視えた”?」
「はい。」
ひとつ頷けば目を細める。
こういう時の吉右衛門さんは恐ろしいほど艶やかだ。
背筋がすうと寒くなる。
「何が視えた?」
「あの男は家の床に三百両溜め込んでいます。」
「ほう。なかなか。」
みるみるうちに吉右衛門さんは笑みを深くした。
ああやはり、この話はすぐにでも売られるん
だろう。
それはあの男が二度とこの吉原に現れないことを意味していた。
もしかしたら、この世からも姿を消すことになるかもしれない。
そんなことは私が知ったことではないけれど。
「よくやった。桜野。」
吉右衛門さんの長い指がおとがいを掴む。
その指先は雪みたいに冷たい。
「ゆっくりお休み。」
そう耳元で囁くとまた帳面を開く。
吉右衛門さんの声はいつも私を動けなくする。
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