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頭を下げてまた音をたてないよう素早く部屋を
出る。
この瞬間ずしんと体が重くなるような気がするのは
きっと疲れているからだ。
言われた通りゆっくりと休めばいい。
自分の部屋に入って簪を外す。
格子窓を薄く開ければ日の光りが差し込んできた。
今はこうして明るくても、夜はまたすぐにやって
くる。
そうして私はまた吉右衛門さんの言う通りに、客の
相手をして全てを“視る”。
「仏の吉右衛門か………」
この桔梗屋の楼主である吉右衛門さんは、遊女に滅法優しいと評判だ。
確かに、ぞんざいな扱いをしているところなんて
見たことはない。
だがそれはあくまで表の顔。
裏の顔を隠すための芝居なんだろう。
その裏の顔を知っている者からしたら仏だとは
きっと言えない。
いや、私からしたら仏なのかもしれないけれど。
手にしていた桜の柄のべっ甲の簪を見つめる。
まだ幼かった頃に吉右衛門さんがくれた、初めての
贈り物であるそれを。
あの日から私は自分の力を吉右衛門さんのために
使うことを決めた。
それくらいしか出来ないから。
何もかも失った私に手を差し伸べてくれた唯一の人。
その人への恩義だけに生かされている。
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