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「困ったなあ」
さして困っていないような軽い口調で東屋はスマホを取り出した。けれどすぐに、あ、と言って仕舞い込む。
「充電忘れてた。匠くんの方は? 仕方ないから助けを呼ぼう」
座り込んだままだった匠は頷き、カバンからスマホを取り出す。とりあえず掛けたのは水谷だった。
「もしもし、水谷さん、今……」
『ごめん、辻本くん! 今話せる余裕ないの、むしろ戻ってきて手伝って欲しいの! 締め切りまであと二時間なの!』
「あ……すみません、ちょっと俺行けそうにないので、頑張ってください……」
『ちょっ、辻本くん?』
電話の向こうで、おーい、と言う水谷に、すみません、ともう一度言ってから匠は電話を切った。それから会社の先輩や友達に立て続けに電話してみたものの、もう帰宅していたり、水谷と同じ状態だったりで、結局匠は、すみません、と電話を切った。
最後に克彦の番号を表示させる。けれどあの口論から何も会話をしていない。助けて、なんてそんな都合のいいこと言えるはずがなくて、結局ポケットにスマホを仕舞い込んだ。
「ダメ?」
匠の様子をずっと見ていた東屋が声を掛ける。匠は情けなく笑って頷いた。
「こういう時助けてくれる人って少ないよね」
「まあ、その時の都合とかもあるしね。とりあえずこっち座ったら?」
隣を目顔で指され、匠は頷く。けれど座ることなく、口を開いた。
「……東屋さん……俺、もうこうやって会うの、やめようと思う」
「仕事が絡んでても?」
東屋がいつもの顔でこちらを見上げる。それに匠は頷いた。
確かに今日は来てよかったと思う。けれど、克彦とあんなふうにケンカしてしまうくらいならやめた方がいい。今更かもしれないけれど、克彦がやめて欲しいと言ったのなら、それが仕事の為でも、友人として会う事だとしても、やめておきたい。
さっき、東屋の車の助手席に乗って、改めて気づいた。もし克彦が自分を好きじゃなくても、恋人である以上、あんな場面は見たくないはずだ。自分じゃない誰かと楽しそうにしている姿はあまり気持ちいいものではない。
「そっか……分かったよ。とにかく、座ろう? いつ出られるか分かんないんだし」
東屋に言われ、壁際に積まれた建材に腰を下ろす。隣に座る東屋がこちらを見て、寒くない? と聞いた。
「今のところ。東屋さんは平気?」
「僕も今のところ。朝になれば作業員が来るから出られると思うけど朝方は寒いだろうな」
「また後で水谷さんにでも連絡してみるよ。締め切りすぎたら大丈夫かもしれないし。恨み言くらいは言われるかもしれないけど」
ため息を吐く東屋に匠が笑いかける。その様子に東屋が、あのさあ、とゆっくりと口を開いた。
「何?」
「今って二人きり、だよね」
「そう……だけど」
下を向いた東屋の表情が読めなくて、匠が首を傾げる。
「朝までこちらからアクセスしなきゃ、密室なんだよ」
「……東屋、さん?」
密室という言葉に不安を感じた匠が立ち上がろうとしたその時だった。腕を強引に引かれ、視界が廻る。気づくとブルーシートの上に倒され、東屋に馬乗りになられていた。
「な……に……」
「匠くんに嫌われたいわけでもないし、彼氏から横取りしたいわけでもないんだよ。でも、男としてさ、このチャンス逃すなんてありえないんだよ。しかもこうして会えるのは最後なんだろ? せめて思い出作らせてよ」
驚いて動けない匠に、東屋が近づく。匠はとっさに腕で唇を覆った。
それを見た東屋が、口の端を引き上げ、強引にその腕をはがす。もう片方の腕で同じように覆ったがやはり押さえ込まれ、今度は匠は唇を噛んで顔を横に逸らした。
「……どうしても僕とはキスしたくないってこと?」
「できない。他の人となんて、何もできない」
克彦でなければ、指の先だって自由にされたくない。目を閉じて身を固くしていると、上からため息が落ちてきた。
「意外と操を立てる方なんだな」
東屋はそう言うと両手を離して、あのさあ、と言葉を繋いだ。
「僕さあ、無理矢理どうこうするの、得意じゃないんだよね。泣かれるよりお願いされたいし。ねえ、市原さんはどういうタイプ?」
その言葉に匠は目を開け、東屋を見上げた。
「何、言って……」
どうして自分と克彦の関係を知っているのだ。これまで会社でもばれた事もないのに、たった数ヶ月出入りしていただけで、そんなことわかるはずがない――そう思っても、心はざわざわと音を立てて不安の渦を巻く。
「結構厳しい人だから縛っちゃうタイプかなあ? でも逆にああいうタイプってプライベートでは縛られたい方だったりするよね。ねえ、どっち? 匠くん」
「そ、そんなの、俺が知るわけ……」
「なくないよね? 毎晩縛られてるんだ。あっちの口のおもちゃ咥えさせられたり、目隠しされちゃったりして、泣かされてるんだろ? そんなんでいいの?」
自分のことならまだしも、克彦のことを馬鹿にされた気がして、匠が気色ばむ。
「克彦はそんなことしない! 勝手に想像しないで!」
思わず叫んだ匠の様子に、東屋がにっこりと微笑んだ。
「克彦、か……やっぱり当たってた。匠くんの彼氏って市原さんなんだ」
東屋のその言葉に、カマをかけられていたのだと気づいた匠は、はっとして視線を泳がせた。いまさら違うと言ってもなんの説得力もないだろう。
「会社にばれたくないよね?」
耳元で囁かれ、匠はまっすぐ東屋を見つめた。その顔が優しく笑む。
「そんな怯えた顔しなくていいよ。今夜、僕の暖房代わりをしてくれれば。匠くんに損はないよ。秘密も守れるし、朝まで暖かい上に天国にも連れて行ってあげるサービス付き」
どう? と頬を撫でられ、匠は唇を噛み締めた。絶対に嫌だ。嫌だけれど、もし克彦との関係がばれたら、克彦はどうなるだろう。売れっ子デザイナーとしての地位を失ってしまうのだろうか――それは嫌だった。
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