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 やり直し、という低い声を聞いて、辻本匠(つじもとたくみ)は体の横で握っていた拳に力を入れた。 「……そんな、ちょっと見ただけでわかるんですか……?」  差し戻されたデザイン画に手を伸ばすことなく、匠は目の前のデスク越しに相手を睨み付けた。本当にさらりとしか見てくれていなかったし、匠は細部にまで拘ったデザインをしたつもりだった。そういう部分を見て欲しいと思ったので、納得いかないことを態度で示したつもりだった。  匠のそんな抵抗ともいえる言葉を受けて大きくため息を吐いたのは、匠が働く建築デザイン事務所の中心デザイナー、市原克彦(いちはらかつひこ)だ。克彦は、匠より六つ年上の三十二歳だが、一級建築士の資格を持っており、そのデザインにも定評がある。指名で飛び込んでくる仕事も多く、この事務所の稼ぎ頭と言っていい。また、ブランド眼鏡を乗せた端正な顔立ちと、テーラー特注のスーツを品よく着こなすルックスのせいで雑誌にもよく顔を出し、今では有名建築デザイナーの括りに入っている。  そんな人が匠の上司なので、同じ建築科を出た元同級生などは羨むが、それは大きな間違いだ。 「どうしてダメかわからないのか? わからないなら、デザイナーなんかもう辞めちまえ!」  匠に向かって持っていたデザイン画を投げつけた克彦が声を荒げる。デザイン画は匠の茶色の前髪に当たり、そのまま歳の割に幼い顔と華奢な肩を撫でて床へと滑り落ちていく。匠は床に落ちた自分の二週間の努力の賜物をただ見つめていた。  そんな匠を横目に克彦は座っていた椅子から立ち上がると、何も言わずに隣をすり抜けていった。背中越しに、現場見てくる、という他の社員への言葉が聞こえ、そのままオフィスのドアが開いて閉まる音が響く。  克彦はこんなことが日常茶飯事の『鬼上司』だ。 「……くっそ……っ!」  匠は奥歯を噛み締め、足元に落ちたデザイン画を拾い上げると、そのまま大股に自分の席へと戻り、乱暴に座り込んだ。 「……おっきな雷だったわねえ。見せて。何が悪かったかな」  隣の席から、そっとそんな声が聞こえてきて匠は顔を上げた。声を掛けたのは、この事務所で克彦の次にキャリアがある水谷(みずたに)だ。歳は絶対に教えない、という彼女はおそらく克彦と同じくらいなのだろうが、ふわりと巻いた長い茶色の髪がよく似合うクール系の美人で、自分と同じくらいの歳にも見える。けれど仕事は自分なんかよりもずっとでき、女性目線でデザインされる家は主婦に人気があり、克彦にデザインを依頼しに来た客が水谷のデザインに変更することもある。  そんな水谷は、この事務所に入って二年目である匠の指導役でもある。 「……全然わかりません」  水谷の言葉に匠は噛み締めすぎて赤くなった唇を今度はへの字に曲げて答える。すると水谷はきれいなネイルを施した指先で、こら、と匠のおでこを突いた。 「ちょっとは考えなさい。多分ここね。この、段差」 「段差ですか? どうして?」  匠がデザイン画と一緒に作った図面を見ながら聞くと、水谷は今度はボールペンでこつんと匠の頭を小突いた。 「これ、三世代住宅よね。確かに家族が増えれば収納も要るけど、将来見越したらこの段差は無理よ」  階段の一段目を広く高めに取り、子供たちが遊べるスペースを取った。その下に収納を作るためだ。その段差は高齢者には向かないということなのだろう。 「そっか……」 「このスペースの案はいいと思うの。キッチンの近くの安全なスペースは母親受けするから。だから、ここを低くして、一段目の収納をなくしてみようか」  水谷はデザイン画にフリーで線を引いていく。匠はそれを見て頷いた。 「だったら階段下収納はどうですか? ここのデッドスペース」 「そうね……そこなら台所収納にも、おもちゃ収納場所にもなっていいかも」  それで直しましょ、と水谷が笑う。匠はそれにほっとして頷いた。 「あと、細かいところも修正した方がいいわね。予算も抑えたいし。そこは一人で直せるよね?」  水谷の言葉に匠が頷く。それを見た水谷は小さく息を吐いてから言葉を繋いだ。 「市原さんが辻本くんに冷たく当たるのは、それだけ期待しているからよ。あなたには厳しく当たっても、その分いいものを返してくるってわかってるからなの」 「……そうなんですか?」  いかにも、その言葉が信じられません、というふうに匠が眉間にしわを寄せる。その表情を見て水谷は、ホントよ、と笑い出した。 「だからそんな顔しないで、直したらすぐに再提出しなさい。きっと上手くいくから」  水谷に背中を叩かれ匠は頷いた。  憧れていた建築士になって、ようやく一年が過ぎた。最近は雑用やアシスタントの仕事とは別に、イチから家一軒まるごとのデザインをやらせてもらえるようになってきた。指導役の水谷が担当のものを匠が代わりにやらせてもらっているだけなので、最終的には水谷が手直しして、水谷の名前で出してしまうのだが、それでもやはり嬉しいものだ。  ただ、徹夜も繰り返して頑張ったデザイン画を顔面に叩きつけられると、正直へこむ。  自分に克彦を納得させるものが作れないことも腹立たしいし、あんなふうに事務所内が凍りつくような怒り方をしなくてもいいじゃないかと思う。自分だって頑張っている。それだけは認めて欲しいといつも思う。 「……ホント、よくわかんない、あの人」  長めの前髪を持ち上げ、ピンで留めながら匠がため息を吐く。それを聞いて水谷は隣で小さく笑った。 「昔、私もそう思ってた。市原さんって、世間で言うイケメンじゃない? 普段の雰囲気は優しそうだし、実際よく気は使うし。でも仕事モードになると鬼で……私もよく、何様なの? って思ってた」 「水谷さんも? 今は……わかる?」 「わかるっていうより慣れた。五年一緒に仕事すれば、プライベートまでは知らなくても、仕事に対する彼の及第点くらいはわかるようになるから」  そのうち色々掴めるわよ、と水谷が笑いかける。匠はそれに頷いたが心の内ではため息を吐いていた。
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