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目の前に電車が走っている。
飛び込もうか飛び込まないか。
日々そんなことばかり考えていた。
ある薬と出会うまでわ。
◇
待遠井 紐人(まつとおい ひもと)。
俺の名前だ。
名前の通り、俺はヒモ男のごとく、女の面影を追いかける日々を淡々と過ごしていた。
新社会人、チェリーボーイ、手を繋いだことなんて一度もない。
つまらない毎日。
通勤のホーム。
常に人生なんて意味がないと考えてしまう。
なんでこんなにも無機質なのか。
聞きたい奴には言ってやる。
俺がDKの頃から片思いしていた後輩が、結婚前提の彼氏と同棲を始めたからだ。
◇
彼女との出会いは電車の中。
一目見て俺は恋をした。
気持ち悪いって言いたいか?
キモくねえ、ピュアって言ってくれ。
俺は彼女のことが好きだった。
SNSで見つけてフォローして、バックが帰ってきた時は、そりゃあ興奮したもんだ。
呟きにコメント。共通の趣味。
文字だけど、初めて会話ができた時、凄く嬉しかったんだ。
大した関係でもねえのになに引きずってんの、って感じだけど、好きなもんは好きなんだよ。
大学生活中、様々な女がいたよ。
でも俺は彼女が好きだった。
だから恋愛なんてしてこなかった。
そんな彼女が結婚してしまう。
陰キャラ、根暗、メンヘラ、ぼっち、そんなジャンルに括られてきた奴なら、この気持ちわかるよな。
俺には、もう生きてる意味なんてなかったんだ。
◇
そんなある日、家の押し入れの整理をしていると、1枚の紙切れが目に入った。
『この恋の行方は俺次第』
例の彼女と出会う前、漫画家を目指していた俺が書いた漫画だ。
青臭い初心者が書いた青春漫画。
内容もあやふやで読んでいて笑ってしまう。
大したことない話だが、自分で作った作品というものは思い入れがある。
つまらなくても、ついつい読み進めてしまう。
自分で作った料理が、大したことなくても、チェーン店の安物よりかは美味しく感じる原理と同じだ。
ペラペラと紙をめくる。
あるページで目が止まる。
その話で、俺が好きなシーンが1つだけある。
ヒロインの寧々(ねね)と主人公で陰キャラの学(まなぶ)が、通りですれ違うシーンだ。
ここだけはキャラクターの感情がわかりやすく、鮮明に書き記されている。
まあ、事実を元に書いたのだからそうなるだろう。
寧々のモデルになった、桜夜(さや)は今頃どうしているのだろうか。
俺が知るはずもなかった。
◇
ある秋の日。
まだ残暑が続く休日。
俺は1人、電車に揺られて耳鼻科へ向かう。
この行為が、俺の片思いという症状を悪化させる。
病院がある場所。
そこは例の片思いの相手、朝美(あさみ)の地元だ。
なんでそんなこと知ってるんだよ。
そう言いたげな皆さんへ。
彼女と同郷の親友に教えてもらったのだ。
耳鼻科へ行った帰り、いつも寄る喫茶店。
もし付き合えていたら、ここでデートとかできたんだろうか。
そんな妄想を、社会人になってまで引きずっている。
きっとこれは一種の病気なんだ。
恋の病っていうのは、軽々しく口にするもんじゃない。
酷い人は、拗らせた挙句に刑務所へ向かう。
早くなんとかしなくては。
症状が重症化した俺は、すぐさま駅へ早歩き。
電車で地元へ帰るのだった。
◇
夜景の綺麗な丘。
例の漫画で俺が書いた場所。
その場所で、学は寧々と夜景をみている。
そんなロマンチックな場所は、実は地元に実在する。
夕暮れ時。
本屋で時間を潰した後、そこへ向かう途中にドラックストアへと立ち寄る。
するとそこには、寧々のモデルの桜夜に瓜二つのJKが働いていた。
俺はビールを買って、すぐにドラックストアを出た。
俺の中に何が湧き出た。
夜景の見える丘。
そこでビールを片手に夜空と乾杯。
まるで薬を飲み干すように、ビールを飲む。
ゴク、ゴク、ゴク。
そして、飲み終えてから考えた。
桜夜は、なにしてるのかな。
結婚していなければ、もう一度会いたい。
いや、結婚していても、会って話したい。
あんな綺麗な人、多分人生で会うことなんて2度とない。
俺は、彼女と話せなかったことを今更悔やんだ。
そして、あることに閃いた。
彼女へ再び本気の片思いすることで、朝美のことを忘れよう。
意味不明な発想だが、俺の抱えている重病を克服するためにやるしかない。
本気で好きになれる相手が見つからない。
人生ラビリンス。
迷える子羊の俺には、この方法しかない。
過去好きだった女性へ恋をする。
俺は決意した。
これから毎日、朝美を思い出したら、桜夜という薬を処方することを。
◇
あれから俺の妄想日記が始まった。
桜夜は奥さんという設定だ。
社会人にもなると、恋愛よりも夫婦に憧れていなければおかしいよな。
朝の見送り。
いってらっしゃいの声。
想像が掻き立てられる。
朝のキスなんてどうだろうか。
頭の中にお花畑が広がった。
お袋の行ってらっしゃいが聞こえると、現実に引き戻されて苛立ち始める。
重病だ。
◇
通勤中に新聞を読む。俺は新聞が大好きだ。
理由は、読んでいると博識になった気になれるからだ。
自分に自信のない俺に、知識という雀の涙くらいの自信をくれる。
無いのとあるのでは、仕事のパフォーマンスがかわる。
会社に着く。
ここでの桜夜は、会社の先輩という設定だ。
これはこれでしっくりくる。
なんたって彼女は、俺よりも大人びていたからな。
バカみたいなオッサンどもに説教を食らった時、彼女がとなりにいる妄想をする。
気分が晴れる。
イージーミス、眠気、集中できない時、彼女から説教される妄想する。
気分が晴れる。
そう、この俺、紐人は、シスコンなのだ。
妹じゃないぞ。姉さんの方のシスターコンプレックスさ。
◇
それからまた時間が過ぎる。
ぼっち飯。
ここでは、2パターンの妄想が頭を過ぎる。
妄想1、愛妻弁当。
桜夜は奥さんだ。
毎日、俺の為に弁当を作ってくれる。
その弁当は心が篭っていて、食べるだけで彼女の顔が思い浮かび幸せになれた。
この会社は陽キャラの塊だ。
そんな同僚達や堅苦しい管理職なんかと食べる飯より、うん百倍美味いに決まっている。
でも、これを作ったのはお袋だ。
親としての愛が詰まっている。
お袋ありがとう、こんな結婚もできない陰キャラでごめん。
素直にそう言いたいが、最後に残るのは怒りと不満と虚しさ、そして冷めた弁当だけだ。
途中でお袋の顔が出てきたら、妄想はおしまい。
俺は残った中身をゴミ箱に捨てる。
なんと親不孝なんだろうか。
こんな陰キャラに育てやがって。
まあ親との関係は置いておけ。
妄想2、オフィスマドンナとのランチ。
桜夜は、オフィスのマドンナ的存在だ。
そんな彼女は仕事が忙しくて、同期となかなか飯に行けない。
どうしようもなくぼっち飯。
そんな時、ぼっち飯をしている俺と目が合う。
元気なさげな俺の横に座ると、一緒にご飯を食べてくれる。
隣に彼女が座っていると考えただけで、俺の陰キャオフィスランチに花が咲く。
俺は彼女との会話を妄想しながら飯を食う。
これまた冷めた弁当が、まるでホカホカの弁当みたいに感じるのだ。
だがこれも、上司が隣にくると現実に戻る。
クソが。
そう思いながら、気難しい顔の上司を見る。
さっさと飯を終えろ。
そう言われ、弁当をしまう。
それから毎日恒例の詰めタイムだ。
最近では仕事ができなすぎて、他の社員から呆れられている。
一時期はカーテンを眺めながら、自殺を考えていたこともあったな。
◇
残業。
この会社は、残業すると怒鳴り散らかされる。
やること残ってるから残業してるんだろ。
そう言いたくなる。
この思いは、他の社員も同じらしい。
会社は、仕事よりも世間体を気にしているようだ。
俺は特に遅いので、上司から目をつけられている。
そんな中で、桜夜のことを思い出す。
先輩という設定の彼女は、いつもとなりで励ましてくれる。
俺は、朝美に片思いして気落ちしていた頃より、タイピングスキルが上がったような気がした。
◇
夜の繁華街。
友達がいない陰キャラでも、大人になれば酒くらいは飲みたくなる。
向かい側に人がいないファミリー席。
前までは目の前に妄想の朝美がいた。
だが彼女は結婚する。
早く忘れないと、SNSで結婚報告でもされたら...。
考えたくない。
もう記憶から消してしまいたい。
なんで彼女のフォロー外さないの?
そう誰かが言ってきそうだ。
きっと心のどこかで、まだ間に合うとか思っている自分がいるのだろうか。
直接会話したことのないくせに、5年以上も片思いした女のことを。
そんな時、俺はまた薬を飲んだ。
目の前に桜夜が現れる。
今日の設定はなににしよう。
やっぱ夫婦かな。
彼女がいて、子供がいて、3人で居酒屋に来る。
いつか飲み屋でバイトしていた時、客をみて憧れた光景だ。
きっと幸せなんだろうな。
俺は1人、ニヤニヤしながら酒を飲んでいた。
◇
ホテル街。
酔った俺は、用もないのに彷徨った。
シャブ中みてえだな。
そう1人でぼやいた。
怪しげなカップルが建物に入っていく。
ビデオの撮影かな?
反対を見ると、美男美女の大学生カップルが建物に吸い込まれていく。
羨ましかった。
俺はここでも例の薬を飲んだ。
なにを想像したのかは、言わずともわかるはずだ。
紐人夫婦は、きっとここらで子作りしたのだろう。
酔いが回る。
薬が覚める前に家に帰ろう。
◇
家に着くとまずはハッスル。
そして風呂。
風呂場での薬の効き目は半端ない。
ルンルンで部屋へ戻る。
こんな顔で毎日いられるのは、例の薬のおかげに他ならない。
電気を消す。
布団に入る。
さあ夢の時間という至福の時。
桜夜が俺のとなりで寝ている。
決してエロい意味ではない。
夫婦の添い寝だ。
今日の出来事を話しながら眠りにつく。
この病気がいつか治りますように。
◇
その後も俺は、毎日のように薬を投与した。
ドライブの時、夜景の丘へ行った時、出張の時、ジョギングの時。
いつの間にか、彼女のことばかり考え、朝美のことを考える時間が減った。
俺はこの頃になると、朝美の写真を見ても一瞬心苦しくなるが、すぐに薬を投与してその場を乗り切った。
だが、ある影が、俺の心を蝕み始めていたのであった。
◇
会社のオフィス。
コピー機の前。
俺は彼女のことを妄想し続けた。
ニヤつく俺。
それを見た、職場の後輩が声をかけてきた。
「何か嬉しいことありました?」
彼女の名前は毬明(まりあ)。
いつも毬のような、暖色系のヨーロピアンな柄のカーディガンを着ているから毬明だ。
そう言いたいけど、毬明は彼女の本名だ。
俺は言った。
「いや、なんでもねえ。」
この女は、他の社員と違ってよく俺に話しかけてくる。
きっと地味な俺を弄んでいるんだろ。
そう思っていた。
だから俺は、相手にしないフリをしていた。
ちょっと気になってはいたけど。
しかし、ここで気づいたこと。
それは、この頃の俺は、他人にですらわかる度を超えた妄想廃人になっていたのだ。
1人でニヤける、独り言を話す。
挙げ句の果てには、用もないのに2本もコーヒーを買って机に置く。
知らない人からしてみれば、もう関わりたくない男になっていた。
でも、薬をやめなかった。
朝美への思いが忘れられなくて。
◇
明日は休日。
夜景が綺麗な丘。
地元で1番好きな場所。
寧々と学。
そういえば2人はどうなったんだっけな。
押し入れにあった漫画は、最後の方が真っ白だった。
途中で投げ出したのか。
高校時代のことなんて覚えてない。
朝美のこと意外は。
通学の電車。
聴こえてくる声。
ふと記憶が蘇りそうになる。
ダメだダメだダメだ。
さっき買った缶チューハイを飲み干して、また薬を注入した。
この夜空を、きっと何処かで桜夜も見ているのかな。
一緒に見たかったな。
そんな妄想が膨らんでくる。
どこかで会えたらな。
俺は空かんをゴミ箱へ捨てる。
帰り道。
だらんと垂れた手に優しく力を入れる。
そして、女性と手を繋いでいるふうを装いながら家に帰った。
途中、一瞬だけ桜夜が見えたような気がする。
生霊か?
考えるだけで怖かった。
◇
チャットアプリの通知だ。
『今日遊べるか?』
藤からだ。
こいつは俺の幼なじみ。
就職せず、ライブハウスとバーのバイトを掛け持ちながら、バンドをやっている。
夜の公園。
藤はブランコに座って待っていた。
俺は言った。
「最近どうよ。新曲できた?」
藤は言った。
「それが、良いアイデア浮かばねえんだよ。」
彼のバンドは恋愛系の曲が多い。
主に作詞は、ボーカルの藤がやっている。
俺は言った。
「そっかー、早く聴きたいな。」
藤は言った。
「急かすなよ。そっちこそ最近どうだ?」
俺は言った。
「まあまあかな。」
藤は言った。
「なら良いんだが。」
彼はやけに心配そうだった。
俺はその理由を尋ねる。
すると藤は言った。
「夜景の綺麗な丘。最近お前行っただろ?」
俺は言った。
「おお、見てたのか。それがどうした?」
藤は言った。
「お前、1人でヘラヘラしたり、空に向かってなんか話しかけてたり、隣に誰もいないのに手を掴んだようにしたり。気味が悪くて声かけなかったんだ。」
俺はゾクっとした。
自分では気がつかなかった。
恐ろしくなって下を向いた。
藤は言った。
「そんで心配だったから、今日誘ってみたわけよ。」
俺は小声で言った。
「ごめん。」
藤は言った。
「いや、謝ることじゃないよ。ただ聞きたいんだ。」
俺は言った。
「何を?」
藤は言った。
「薬物に手を出してないか?」
俺は黙った。
藤は言った。
「俺の友達でさ。薬やってパクられた奴がいるんだよ。そいつの薬の症状とちょっと似てるなって。」
俺は恐ろしかった。
自分は妄想しているだけだった。朝美を忘れるために必死だった。
必死に踠いて、踠いた先でみつけた薬。
楽になれたから飲んでいたら、まさかこんなことになるなんて。
藤は言った。
「話は聞くから言ってみな。」
俺は、藤にあっさりとことの顛末を話した。
◇
缶ビールを片手に藤は言う。
「そういうことだったのか。」
俺は言った。
「だが俺は、桜夜に一度会って話がしたい。」
藤は言った。
「なんだかんだ、彼女が1番幸せになりそうだったよな。」
俺は言った。
「どういうこと?」
藤は言った。
「いや、あんな美人、他に見たことないだろ。だから、1番幸せ掴んでそうって意味。」
俺は思い出した。
以前たまたまSNSを漁ってた時、彼女に似たような女性を見つけた。
名前も同じ。
顔に面影あり。
でも少し雰囲気が違う。
その人は、旦那さんと子供と幸せそうに暮らしていた。
その日は落胆したような。
しかし、それは別人だと言い聞かせて妄想した。
ただ、藤の言葉を聞いてから、俺の気持ちは重たくなってしまった。
藤はボヤいた。
「恋の病を治すために飲んだ薬。その副作用に苦しめられるお前。」
俺は言った。
「なんか言ったか?」
藤は言った。
「いや、なんでもない。」
彼は、何か閃いたような顔をしていた。
◇
週明けの朝。SNSを開く。
匂わせ。
匂わせってなんだよ。
臭えよ。
例の朝美は、婚約者との生活を、わかるかわからないか程度に投稿していた。
俺は朝から鬱になった。
長い道を歩いて駅までやってくる。
また死にたい衝動に駆られる。
俺はこの願望を抑え込み。
また妄想に浸る。
しかし、ここらでまた気付く。
毎日、毎日、同じ薬を処方していたのだ。
身体が耐性を付け始めやがった。
俺は、そのまま鬱状態で出勤した。
◇
仕事中。
集中できない。
前に戻った。
薬を飲む前に。
いくら妄想しても上手くできない。
時間が刻々と時を刻む。
飯の時間。
ぼっち飯。
SNSを開く。
桜夜の名前をサーチしてみる。
例の似たような女性が出てきた。
が、その下にもう1人同じような人が。
俺はすぐさまそれを開いた。
アカウントに入り、入念に調べていく。
陽キャラのSNSを監視する。
陰キャラあるあるだ。
調べ終わると俺は愕然とした。
本人か確証は持てない。
だが、俺の知る限りの情報と照らし合わせると、これは彼女に近い。
箸が止まった。
そこから16時頃まで、何をしていたのかいまいち曖昧だ。
ずっと気持ちは沈んだまま。
東京湾へ飛び込みたい。
いや大洗もありだな。
そんなことが頭を過ぎる。
クソみてえなおっさんどもから頼まれ、書類の印刷をする為にコピー機の前へ。
するとまた再びあの女と鉢合わせる。
毬明だ。
毬明はまた、暖色でヨーロピアンな柄のカーディガンを着ていた。
俺は印刷作業がすこぶる遅い。
そんな俺に彼女は話しかける。
「早くしてくださいよ。」
俺はイラついて言う。
「わかってるよ。」
彼女は不満そうな顔をしていた。
黙れ、黙ってくれ。
俺は今、誰とも話したくねえんだよ。
そう思いながら、黙々と作業を進める。
すると、余りの遅さに痺れを切らしたのか、彼女は無断で手伝ってきた。
俺は冷たい目で彼女を見ていた。
俺ができなかったことを、年下のくせに難なくこなしていく。
こういう時、俺はいつも思うのだ。
俺に価値なんてないんだって。
もし隣に桜夜がいたら、なんて言葉をくれるのだろうか。
俺は隣を振り向くが、そこに桜夜はいなかった。
代りにいたのは、作業を終えた生意気な毬明だ。
彼女は俺に言った。
「頼りないですね。」
手を上げたくなるが堪える。
俺は自信ない声で言った。
「うん...。」
彼女は、何も言わずにその場から立ち去った。
そしてまた、俺は上司と先輩に詰められた。
◇
会社から駅へ向かう途中、ちっぽけな公園へ立ち寄った。
ベンチに座りため息をつく。
俺、もうダメかもしれない。
そしてまた薬を飲んでみる。
すると、思いのほか上手くいく。
落ち込んだ俺に桜夜が言う。
頑張れ紐人。
俺の顔にふと笑みが溢れた。
通りすがりのJKが、俺の方をみて気持ち悪がっている。
だが俺は思うのだった。
俺には桜夜がついている。
お前らなんぞより圧倒的リア充なんだ。
気分良くなった俺は、また駅までの道を歩き出す。
だが、気分良くいられたのは、公園を出てから2分くらいまでだった。
◇
信号待ち。
通り過ぎたミニバン。
助手席には男。
運転席には女性。
桜夜そっくりだ。
後部座席には子供。
目で追いかける俺。
信号が青に変わる。
歩きながら考える。
彼女はもう結婚したのだろう。
結婚していたとしても、一目見たいだけというのは強がりだ。
本当は結婚したい。
そばにいて欲しい。
いて欲しかった。
頭の中。
横から流れてくる文字。
彼女はいない。
彼女は別世界。
あの頃のまんまのわけがない。
青春。
そんなのとっくの昔に終わった。
放心状態。
心の支えが泡となって消える。
現実。
朝美。
結婚。
戻れない時間。
ああ、これが現実。
立ち直れない。
◇
全てを失ったように現実へ戻る。
目の前に駅。
ずっと続くであろう、つまらない底辺の日常。
合わない仕事。
いや、合わない訳ではないのかもしれない。
興味がないだけだ。
きっと。
俺は昔から女の面影しか見ていない。
あの子が右へ行けば右。
左へ行けば左。
自分という存在なんて、女ありきの存在。
そう、実態すらなかったのだ。
俺は、どんな事をしても、自分の人生に納得する事はないだろう。
なぜなら、納得のいく女性と暮らすこと。
それが、唯一自分の人生に納得いかせる答えだったのだから。
朝美もいない。
桜夜もいない。
もう俺にこの人生を生きていく理由がない。
そうだ、死のう。
死んだら妄想の世界へと行けるはず。
一生薬の効力に浸って、桜夜と暮らせるはず。
俺は、もはや自分を制御しきれなくなった。
◇
妄想恋愛。
その薬物の本当の恐ろしさ。
副作用。
現実を知った時、全てが崩壊する。
精神も心も、そして肉体も。
◇
気が狂った俺は、電車が入ってくる線路に向かって駆け出した。
あと少しで楽になれる。
薬なんて飲まずとも楽になれる。
行け、走れ、飛べ、目をつぶれ、痛みは一瞬のはず...。
だった。
そうなるはずだった。
だが、俺は前へ進めない。
なんで。
怖気ついたか。
違う。
誰かに腕を掴まれている。
離せよ、離してくれよ。
すると声が聞こえてきた。
「紐人さん!忘れ物です!」
死んだような顔で後ろを向く。
するとそこには、息を切らした毬明の姿があった。
彼女の手には、明日の会議に使う資料の入った封筒が握られていた。
電車がホームへ到着する。
俺は毬明から、それを奪い取ると怒鳴った。
「余計なことしやがって!!」
周囲の人々がこちらを見ている。
毬明は怯えた目でこちらを見ていた。
俺は恥ずかしくなって、電車へと駆け乗った。
◇
帰りの電車。
無機質。
力がこれっぽっちも入らない。
妄想しても妄想が膨らまない。
薬が欲しい。
誰か。
助けて。
そんな時、携帯が揺れる。
チャットアプリ。
藤からのメッセージ。
『今日、暇?』
誰かに話を聞いて欲しい。
俺はすぐに返事を返した。
◇
夜遅く。
藤の車。
工場の夜景。
眩い、エモい、美しい。
暗い海。
埠頭。
俺と藤は車を降りた。
げっそりした顔の俺。
今日の出来事を藤に話す。
藤は言った。
「毬明って、この前言ってた後輩?」
俺は頷く。
藤は言った。
「明日その子に謝れよ。」
俺はまた頷いた。
藤は言った。
「しかし、桜夜っていう薬の副作用はとんでもなかったな。」
俺は言った。
「これからどうすれば良いんだろうか。」
藤は言った。
「さあな。でも、辛いかもしれないが、現実を見るしかない。青春は戻ってこない。戻ってこないことで思い悩んでも、幸せにはなれない。」
俺は言った。
「現実か...。」
藤は言った。
「朝美ちゃんや桜夜が消えたから、自分には何もないだって?」
俺は頷く。
すると彼は言った。
「そんなことないだろ。俺もいるし、あの子もいるだろ?」
俺は言った。
「あの子って誰だよ。」
藤は言った。
「毬明ちゃん。」
俺は言った。
「あいつはただの後輩さ。」
藤は言った。
「お前のこと、気にしてくれてると思うけどな。」
俺は言った。
「そうかな?」
藤は言った。
「まあ無理せず、今度は現実と向き合ってみなよ。いつか恋の病を克服できる日はきっとくる。」
俺は浅い相槌を打つと、暗い夜の海の果てに灯る、一筋の光を目で追った。
藤と話していると何故か落ち着く。
幼なじみだからだろうか。
彼はまるで、灯台だ。
暗い海の果てにある何か。
そこにたどり着く道を照らしてくれているようだった。
◇
明くる日の朝。
俺は毬明に誤った。
彼女は驚いていたが、許してくれた。
俺は人に謝ることが苦手である。
勇気を振り絞った。
受け入れられたことは、ちっぽけではあるが自信に繋がった。
それからというもの、毬明と会ったら話をするようになった。
そして、徐々に自分から他人とコミュニケーションを取れるようになる。
もちろん、何度も何度も朝美や桜夜のことを思い出す日々は続いた。
しかし、今が楽しいと感じられ始めてからは、その回数も減っていく。
そしていつの間にか、遠い昔の思い出のごとく感じられるようになった。
俺のSNSのフォロー欄から、朝美の姿は消えていた。
◇
雪の日。
世間。
受験。
俺は試練。
毬明とのデート。
イルミネーション。
激混み。
仕方なく例の丘へ。
車を止め。
坂道を登る。
寒い夜。
俺と毬明は、俺の地元の夜景を見る。
夜空を見上げて、桜夜を思い出してみる。
だが、一切興味がわかなかった。
なぜなら、俺は隣にいる毬明に全興味を注いでいたからだ。
俺は告白した。
笑われると思った。
だけど、真剣に受け入れてくれた。
帰り道。
手を繋ぐ。
実態のある温もり。
俺は本当の幸せを手に入れた。
◇
冬が終わり、春がやってきた。
桜が舞う季節。
噂で耳にした朝美の結婚報告。
俺は一切動揺しなかった。
そして心の中で呟いた。
本当におめでとう。
下心も嫌味も執念もない。
心の底から溢れ出たおめでとう。
毬明や藤のおかげもあって、俺は現実を見ることができた。
最近では嫌いだった上司や先輩、同僚、そして親とも、分け隔てなく仲良くすることができるようになった。
俺を縛り付けていた紐が解けて、人と人とを繋いでいった。
もう過去は振り返らない。
俺は、俺の周りの人の為にも、今後は一切薬を辞める。
そして、前を向く。
お花見デート。
桜散る土手。
桜祭り。
毬明と手を繋いだ俺は、2人でどこまでも続く長い土手を歩いた。
◇
3年後。
夜景が綺麗に見える丘。
俺は久しぶりに呟いた。
桜夜さん、元気にしてますか。
俺は、めちゃくちゃ元気にやってます。
あの頃は、勝手にお世話になってましたね。
実は俺、来月彼女と結婚することになりました。
そんで地元を出ます。
これを気に、あなたの名前を出すのも最後になりそうです。
あの時は、本当にありがとうございました。
さようなら。
そう心の中で言い終えると、ゆっくりとその場から背を向ける。
だが、あることを言い残して、また振り返る。
「あ、そうそう。藤のバンドが、また新しいアルバムを出したので、聞いてみてください。」
そう言った俺は、スッキリとした顔で丘を降りた。
◇
車の中。
何か辛いことがあった時、たまにあの頃のことを思い出した。
藤のバンドは、どうやらメジャーデビューをしたそうだ。
ナビのオーディオ。
ジャケットのイラストは、なんとなんと、寧々と学だ。
彼が新しく出したアルバムの一曲目。
あの時、彼が作った曲から始まった。
そのタイトルは...。
「副作用」
完
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この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
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