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 佐伯隆一の定期演奏会に通い詰めた客なら、アンコールの曲目は暗黙の了解であった。隆一は肩越しに振り返り、この二時間ピアノを弾き続けた山下冴子に目配せする。彼女の指にも演奏会最後の曲は染み込んでいる。  アンダンテ・レリジオーソ(歩くような速さで厳粛に)。『タイスの瞑想曲』のタイトルにふさわしいアルペジオに続いて、隆一はピックを持った右手を震わせた。  決して音が大きくならないように。右腕を抑制して弦を素早く弾けば繊細な高音が響き渡る。かつてマンドリンに出会った時に魅了された音だ。トレモロ。弦を震わせるように弾くことで、そのままでは消えてしまう音に広がりを与えて響かせる。同じように弦を利用しながら、ピアノともバイオリンとも違う澄んだ音が客席を包んでいく。  大平音楽堂で六月と十一月に定期演奏会を開くようになったのは二十八歳の頃で、紆余曲折を経てマンドリンという楽器に巡り合った時期であった。ピアニストとしての活動に行き詰まり、音楽の視野を広げるつもりで手を出した楽器だが、気づけばこの十年間、マンドリン以外の楽器を人前で弾いていない。百人規模の大平音楽堂の客席を半分埋めるのも苦労したのは昔の話で、今は固定客も含めてチケットが完売できている。客席には見知った顔がいくつも見つけられた。
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