或る男の噺

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或る男の噺

ええ、僕と彼女は愛し合っていました。 ほんとうですよ。僕は無闇に嘘をついたりはしませんから。 何故って、彼女は初恋のあの子に似ていたのですから。 愛嬌のある娘でした。笑うと笑窪が出来て、それが可愛らしくてね。僕は忽ち虜になったのです。…ええ、学生時代の。確か、中学生の頃でした。 知ってました?初恋って、檸檬の香りがするんですよ。 甘酸っぱくて、綺羅びやかでね。 彼女からも、檸檬の香りがしていました。 リボンを御負けに、器用に結った髪が素敵でした。 結った烏の濡羽色が笑う度ゆらりと揺れるんです。二藍色の着物がよく似合っていました。 噺は戻るのですが、その初恋の娘、どうなったと思います?気になりますか?そうですか。僕は気になりますよ。 甘酸っぱい檸檬がただの苦い渋柿になった瞬間を覚えていますからね。 若気の至りと言うのでしょうか。告白したのですよ。ええ、その初恋だった娘に。 そんな風には見えない?言ったでしょう。若気の至りだと。 そうです。兎にも角にも僕はその娘に告白したのです。一生懸命、拙いながらも恋心をしたためた手紙を片手にね。 するとその娘、それを受け取ってどうしたと思います?破り捨てたんですよ!それも僕の目の前で、です。 うふふ。信じられませんか?此れも、ほんとうですよ。 それを破り捨てて、私は他の男の子が好きなんだと言い放ったのです。幸か不幸か、その日は卒業式でしたから。それ以来彼女とはあっていませんが、今頃どうしているんでしょうか。その意中の相手の第二ボタンが彼女の手に渡ってなければいいのですが。あの娘は僕が思っていたよりも野蛮でした。恋は盲目と言いますが、まさにそれでした。 …話が逸れましたね。 そうです。彼女がその娘と重なったのですよ。 攫おう、と思ったのはその時でした。 え?それだけなのかって? ええ、それだけですよ。 …貴方、理由がきちんとある犯罪って、大体何割あると思ってるんです?ふうん。そんなに多いと思ってるんですね。小説じゃないんですから、すべての犯罪に都合のいい動機があるなんて、訳ないでしょうに。 でも、十割では無いんでしょう? ええ、そうですね。理由のない犯罪の方が綺麗ですものね。…僕ね、耽美主義なんですよ。意外と。 空が綺麗だったから殺した。蝉時雨が止んだから攫った。 ね、淡白でいいものでしょう。でもね、僕が話してるのは殺したいと思った動機であって、殺した理由とは違うわけです。 けして痴情の縺れなんて、そんな安直な言葉で僕たちの関係を終わらせないでくださいね。 だって、僕たちは愛し合っていたんですから。 うふふ。ほんとうですよ。無闇に嘘はつかないって、最初に言いましたからね。別に今がその無闇の中に入っているかなんて、一言も言ってはいないですけどね。 そんなに顔を強張らせないでくださいよ。冗談です。少なくとも、愛し合っていたのはほんとうですから。噺を戻しましょう。彼女、名前はチヨと言いました。二藍色の着物が似合う、其の子です。偽名だったのかも知れないですが、今となっては関係のない事ですね。チヨでもチヨコでも他の名前でも、僕は彼女を愛していましたから。 それから、僕はどうやって攫おうか考えました。人が多かったものですから、見失ってしまってはもう会えるか分かりません。今、ここで攫おうと思いました。 路地の近くに入ったら攫おうと決めたのです。 騒ぐと面倒なので手拭いを丸めて口に詰めようと考えていたのですが、果たしてチヨは叫びも暴れもしませんでした。 初めての誘拐は、驚くほど呆気なく終わったのです。 知ってましたか。チヨって、案外肝が座っているんですよ。 後にどうしてあの時何も言わなかったの、と聞いたことがあります。するとね、チヨは貴方が優しく手を引いてくれたから、なんて言うんですよ。当たり前でしょう。女の子の体は脆いんですから。丁重に扱わないと、すぐ壊れてしまう。貴方もそうですよね?ええ。そうですよね。…意外だなあ。 うふふ。いや、記者って、野蛮じゃないですか。こうやって何処までも追いかけてきて、言っていないことでも一面に飾って騒ぎ立てる。嫌な職業ですよね。でも、きっと、噺を聞く方も辛いでしょうね。仕事でやっているのにこちら側だけ批難されるというのも辛いですよね。だから僕はどちらも貶します。僕ね、子供の頃から絶対記者だけにはならないと決めていたんですよ。だって野蛮ですから。…ああ、すみません。別に記者さん。貴方個人を貶している訳ではないんですよ。 また噺が逸れましたね。最近話す相手がチヨ以外いなかったものですから、嬉しいのかもしれません。 …僕らは同じ境遇だったから、尚更分かりあえたのかもしれないですね。 別に、金に困っていた訳ではないんです。そもそも僕の家もチヨの家も、人並み以上に裕福でしたから。名前くらいは知っているんじゃありません?ほら、帝国ホテルの近くにある、もう一つのホテル。そこを経営しているのが僕の家です。正確に言うと、僕の父です。ええまあ、帝国ホテルが近くにあるものですから、少々気後れはしますけどね。それでも使い勝手はいいから、人気なんですよ。 チヨの家は美術商だと言っていました。詳しくは教えてくれませんでしたけれど。けれど、浪漫主義とか耽美主義とか、そんなものを語れるのは上流階級の人間だけですからね。ええそうです。チヨもロマンシティズムでした。 まあ、女の子は皆そうでしょう。 僕たちは、愛に飢えていたわけでもありません。 僕もチヨも、それなりに愛されて育ってきました。僕は父の仕事を継ぐつもりでしたし、嫌だと思ったことは一度もありません。チヨも近々見合いをするのだと言っていました。ええ、僕、そこらへんは気にしないので。だって見合いでしょう?恋愛結婚では無いじゃないですか。 僕たちは、ただ飽きていたんです。きっと。 裕福な家庭の中愛されて育ち、友達もいました。勉強も苦ではありませんでしたよ。目まぐるしく移っていく日常がなかっただけで。ゆっくり、ゆったりといつもの退屈な当たり前の日常は過ぎてゆきました。あと何回繰り返せば終わりが来るのだろうか。いや、そもそも終わりなどあるのだろうか。たまに急に。唐突にそう考える事が増えてきた頃でした。 ふふ。いや、死は終わりではないでしょう。四九日間地獄行きか天国行きかを査定して、それからまたどちらかで日常を繰り返す。ね、終わりではないでしょう。僕、仏教徒ですから。記者さんは誰を信仰していらっしゃるんですか?答えたくなければいいです。続けましょう。 …ロミオとジュリエットでしたっけ。僕たちは、酔っていたんでしょうね。だって誘拐なんて、大体の人は経験したことがないのですから。 それに、僕は攫ったあとどうしようか考えていませんでした。身代金なんて要りませんし、強姦目的で攫ったのではありません。だって僕の犯罪は、淡白な思い付きでしたから。だから一先ずホテルに泊まることにしました。ええ、先程言った、僕の父が経営しているホテルです。 あのホテルね、裏口があるんですよ。従業員しか通れないんですけど、僕はオーナーの息子なので。ホテルの経営を任せている従業員の一人に、ああ、勿論一番長く勤めている、信頼できる人ですよ。その彼に一部屋貸してもらえないかと頼んだのです。このことは内密に、とも頼みました。そこでいいえなんて言えませんよねえ。ちゃんと泊まれましたよ。チヨの事は勿論言いませんでした。まあ、僕は元々一人になる時間も大切にしていたので、こうやって父や母に内緒でホテルに泊まることは多々ありました。別段疑われはしませんでしたよ。彼も、いつもの事だろうと笑いながら部屋の鍵を渡してくれました。 名家の娘が攫われたなんて、きっと逢魔時には街全体に広まっていることでしょう。その時に僕と一緒にいたなんて知れたら、僕たちの暇潰しは終了してしまうじゃありませんか。チヨも僕が彼女に危害を加えないと分かっていたから、こうして静かにホテルにも泊まってくれたのです。 それから僕達は色々な事を噺ました。学校の事、友達の愚痴、家の事。その時にチヨの名前を知りました。何故チヨの手を引いたのかもその時に言いました。そうですね。初恋のあの娘の噺です。うふふ。少し恥ずかしかったんですけどね。 チヨはよく笑う娘でした。ころころと表情を変えて、口から心地の良い鈴の音を出すのです。 彼女は聞き手になるのも語り手になるのも上手かったのです。僕はそんな彼女につい見栄を張りました。明日、歌劇を見に行こうと約束したのです。そうです。数日前に演っていた、少女歌劇です。チヨは勿論素敵だと了承してくれました。流行り物には目がないのが女の子ですからね。 その日は運ばれてきた夕食を食べて、風呂に入って、そのまま眠りました。 檸檬の香りに包まれながら眠るのは心地よかったですよ。安眠そのものでした。 次の日、僕達はちょっとした変装をして街に出ました。変装と言ってもスカーフで顔を見えにくくしたり、サングラスを掛けたり程度のことでしたが、チヨは隠れんぼの様だと燥いでいました。 チヨはまだ学生でしたから。年相応の稚さが残っていて、妙に愛らしかったのを覚えています。 それからですね。ちらほらとチヨの顔写真と行方不明という文字を街で見かけるようになったのは。心配してくれてるのね、と彼女は嬉しそうに零しました。この逃避行にも飽きたら僕たちは家に帰る予定でしたし、何も危ない目に合っている訳ではなかったので、チヨが楽天的という訳ではありません。 友達の家でお泊りをしていたと誤魔化すんだと言っていました。 チヨは歌劇を観たあと、私もあの舞台に立ちたいと目を輝かせて言いました。僕もチヨなら成れると思いました。チヨの凛とした透き通る声は聴いていて心地が良いのですから、世間が放っておく筈がありません。 結婚もしなくてはならないし、舞台にも立ちたいし、何だか私の将来は忙しいわ。チヨは猪口齢糖を口に放り込みながら言いました。 それから僕たちの暇潰しの逃避行は五日を過ぎました。 確か、その辺りからでしたね。段々と手を繋ぐようになり、指を絡めるようになり、お互いを見つめる瞳は熱を持ってきました。 僕たちはお互いを異性として見始めたのです。嬉しかったですよ。ええ、とても。その頃街ではチヨが行方不明になったという記事がよく見られました。ラジオでもよく聞きましたね。チヨと言う名前は果たして本名でした。 貴方の新聞社でも、チヨの件、取り扱っていましたか?そうですか。記者さんは流行に敏感ですからね。名家の娘が誘拐された、犯人からの音沙汰は未だ無し。前代未聞ですものね。無視する道理は無いでしょうね。 …そこまで訊くんですか?まあ、これは男の儀式的な挨拶の様なものですからね。いいですよ。 別に、逢瀬はしませんでした。逢瀬だけが愛情表現だとは限りませんし、僕たちの場合そんな事しなくても充分愛情は伝わっていましたから。 最初に言ったでしょう。僕たちは、愛し合っていたのです。 ――じゃあ何故あんな事をしたのかって? 今から話しますよ。別に急がなくても、僕は逃げません。逃げられません。うふふ。やっと、記者さんが知りたがってた事が聞けますね。 確か僕たちの暇潰しが七日目に入った時のことでしょうか。 チヨがもう家へ帰ると言い出したのです。流石に友達の家で泊まっていた、という言い訳も通用しなくなるから、と。 僕は了承しませんでしたよ。何故って、僕はまだ飽きていなかったのですから。それに、家に帰ったらチヨは見合いをするでしょう。婚約者がいるのに他の男と会うなんて、家柄にも傷が入りますし、何処か後ろめたくなるじゃありませんか。堂々と愛せないなんて、ありえません。 チヨは「帰りたい」から段々と「帰らせて」に口調が変化していきました。チヨだって僕と一緒に居たいはずです。我慢をしなければならないのは可哀想でしょう。 だから、もう少しだけ一緒に居ようと言ってやりました。それでもチヨは帰らせてと頼むんです。終いには泣き出してしまって…。変じゃありません?僕たちは愛し合っているのですから、一緒に居るのは当然でしょう? その日は何とか諭しましたよ。一旦眠れば考えも変わると思ったんですけどね。次の日起きてもチヨの言うことは変わりませんでした。 外に出て気分転換しようと思ったのですがね、流石に八日ともなると、チヨの事は東京以外の他県にも伝わっていましたから。 警備も厳重になっているでしょうし。歌劇を観に行った日とは状況が違うわけです。 仕方なくホテルで一日過ごしたのですが、チヨは「帰らせて」と泣いてせがむ事しかしませんでした。 ええ、そうです。その夜です。 喉が渇いていたんです。ふと、目が覚めてしまいまして。 隣を見るとチヨは居ません。チヨは部屋から出ようとしていました。扉の取手に手を掛けようとしていた、まさしくその瞬間でした。 僕は一瞬何が起きたのか分かりませんでした。チヨがこの部屋から出る道理など、無いのですから。そうでしょう?…そうですか。貴方、よく捻くれていると言われませんか?言われない?意外ですね。―そんなに顔を顰めないでくださいよ。別に冗談ではないです。嘘ではありませんよ。 其れで、チヨの噺です。チヨは、このホテルから出ようと、僕から逃げようとしていたのです。ええ、そうです。逃げようとしていたのです。チヨが、僕から。 腸が煮えくり返る、と言うのはまさしく此の事ですね。 同時に悲しみもありましたが。やはり怒りの方が勝っていました。 だってそうでしょう。あんなに僕はチヨの事を愛していたのです。僕は軟派な男ではないのですから、愛の言葉なんてそう軽々と言いません。チヨだって、僕の事を心から慕っていると言っていました。それなのに、チヨは僕を裏切ったのです。逃げるなんて、ありえません。そうでしょう。そうでなければいけません。そうでなければ、僕がチヨを愛したあの時間は無駄だった、意味の無いものになってしまう。チヨも、あの時の、初恋のあの娘の様になってしまう。恋は盲目だと僕はもう学びました。同じ過ちを繰り返す筈がありません。 それなら、あの時の様に、はっきりと拒絶される前に、殺すしか無いでしょう。 死人に口なし。これでは愛の言葉も言えませんが、変わりに僕を裏切る様な、野蛮な言葉も言いません。 咄嗟にベルトを手に取りました。チヨは元々華奢だったので、すぐ事切れてしまいました。 案外、人を殺すというのは呆気ないものですね。もっと重大で覚悟のいるものだと思っていました。 チヨは今際の際まで信じられない、と言ったふうに目を見開いて僕を睨めつけていました。睨めつける理由なんて、何処にあるんでしょう。不思議ですよねえ。 僕の事を愛したまま死ねるのですから、まだ幸せな方ではないですか。そうは思いませんか?誰かを恨んだまま死ぬなんて、憐れでしょう。可哀想でしょう。 そこからは貴方の知っている通りです。チヨを何処かへ隠そうと、部屋から出たところをホテルマンに見つかったのです。迂闊でした。呆気なかったとはいえ、初めて人を殺したのです。気が動転していました。死体を部屋に置いたまま、遺棄する場所を探せばよかったのです。此れだけは後悔しています。 ええ、此れだけは。チヨは仕方がなかったのです。不幸な事故です。…貴方、素直なんですね。表情に表れてますよ。今も、先程も。うふふ。 …これで僕の噺は終わりです。聞きたいことは聞けましたか?他に質問はありませんか?そうですか。 では終わりですね。僕も、久しぶりに誰かと話せて良かったです。 ねえ、記者さん。 どうですか。僕の噺は、記事の一面を飾れはしますか。
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