朝日新聞の伝える新情報「光秀は本能寺に行かなかった?家臣の証言、古文書に」」

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朝日新聞の伝える新情報「光秀は本能寺に行かなかった?家臣の証言、古文書に」」

 さて2021年1月4日付の全国紙は、「乙夜之書物(いつやのかきもの)」という古文書について報じた。  「朝日新聞」は一面と二十六面で大きく本能寺の変についての「新情報」について報じている。  以下、要約と一部引用して紹介する。 <「朝日新聞」一面記事見出し  光秀 本能寺に行かなかった? 家臣の証言、古文書に (一面記事要約)  本能寺の変を巡り、光秀は本能寺の現場には行かず、部下に実行させていたという学説が出てきた。本能寺の変に参加した家臣から聞いた証言が事件から八十七年後にまとめられた古文書に記録されていた。  これまで光秀本人が本能寺を襲ったように映画やドラマで描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも論議されていた。   (引用)  古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世資料館所蔵 三巻本)。史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関する記述が注目されてきた。  このほど、富山県郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。  萩原さんによれば、本能寺の変の記述は、1669年に成立した上巻にある。 (一面記事要約)  斎藤利三の三男で数え年十六歳で事件に関わった利宗が、加賀藩士だった甥の井上清左衛門に語った内容によると、利光と明智秀満率いる先発隊が本能寺を襲撃し、光秀は約八㎞南の鳥羽に控えていたと書かれている。  萩原さんは、  「関屋の自筆本であり、事件の関係者が情報源なので信憑性は高いのではないか」 と語っている。  光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂所教授は、  「十分あり得ることではないか」 と述べている>  更に二十六面では、「乙夜之書物(いつやのかきもの)」を詳しく読み解いた富山県郷土博物館の萩原大輔主査学芸員の見解を箇条書きにして紹介している。 <(二十六面記事引用)  「乙夜之書物(いつやのかきもの)」には「光秀は鳥羽ニヒカエタリ」と、光秀が本能寺に行かなかったことが記されているほか、本能寺の変に関わる以下の四点が新しい情報とみている。 ①光秀重臣の斎藤利三が事件前日の六月一日昼に亀山城(京都府亀山市)を訪れ、光秀謀反の決断を知る。 ②光秀軍の亀山城の出発は一日の日暮れ。 ③光秀軍の兵たちが本能寺に向かうことを告げられたのは、真夜中に休憩した桂川の河原 ④(二日早朝)信長側の光秀軍襲撃の第一発見者は寺で水をくむために門外に出てきた召使。信長は乱れ髪で白い帷子姿>    「朝日新聞」は一月二十九日、三十一日の文化・文芸面に『「乙夜之書物」が解き明かす本能寺の変』で、小和田哲男氏をはじめ歴史学者、研究家の意見をはさみながら、「乙夜之書物(いつやのかきもの)」に記された本能寺の変の模様について詳しく紹介している。  「朝日新聞」の記事によれば、「乙夜之書物」は著者の関屋政春が息子のために書き残したもので、奥付には  「他人に見せてはならない」 とあるという。     
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