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「朝日新聞」が報じた「乙夜書物」の本能寺の変とは?
■「朝日新聞」一月二十九日付
「乙夜之書物が解き明かす本能寺の変」より引用
「乙夜之書物」に記された斎藤利三の三男、斎藤利宗が甥の加賀藩士、井上清左衛門に語った内容の大意
<光秀は中国地方で毛利勢と戦う羽柴(のちの豊臣)秀吉への援軍という名目で自軍の兵を亀山に集めた。
利三は六月一日昼ごろ、兵を引き連れて亀山城に到着。光秀は白の入口で戸利三を出迎え、一緒に城内の奥にあったとみられる数寄屋に入った。
利三は光秀から謀反の決意を告げられる。
利三が「先鋒は私が引き受ける」と伝えると、光秀は喜び、勝手口に控えていた左馬助(倉橋注・明智秀満のこと)を呼び、「皆同じ気持ちだと述べ、左馬助は「めでたいことと存じます」と応じた。
光秀が「熱いので何かないか」と言うと、冷やした道明寺(飲み物か?)が供された。すずり箱と熊野牛玉の宝印が押された料紙が出され、同席の武将は誓詞血判状を書いた。その後、光秀は軍勢を率いて、日暮れ前(倉橋注・当時の日没は午後七時頃だったという)に亀山城を出発した。
(軍は)夜中に桂川の河原に到着し、そこで光秀は兵糧を使うように命じた。
その際、「(信長のいる)本能寺に取りかかるので、その心づもりでいるように」と物頭が軍勢に告げたため、皆、勇み立った。本能寺へは明智弥平次秀満と斎藤利三が二千余騎を率いて向かい、光秀は鳥羽で待機した>
「朝日新聞」の報道を読んでみて、どんな感想を持たれたろうか?
藤本正行氏の『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』で紹介された斎藤利宗の回想と比べて頂きたい。
若干ニュアンスの違っている部分もあるもののかなりの部分、内容が重なっていることが分かる。
斎藤利宗が複数の人間に同じ話をしたことも考えられるが、高瀬羽皐氏が「山鹿流(軍学)の秘書」と呼んでいるのが「乙夜之書物」の可能性もある。
いずれにしても高瀬氏は、「山鹿流(軍学)の秘書」の中の斎藤利宗の回想に注目して書き写し、大正十年(1921)に自らの雑誌『刀剣と歴史』に「本能寺実歴談」として掲載したのである。
「朝日新聞」が一月四日付の記事で、「新情報」とする光秀の鳥羽での待機など重要な点は既に活字になっていたのである。
そして藤本正行氏も内容について評価して改めて要約して紹介している。
斎藤利宗の回想というのは、2021年になって突然現れた新しい情報ではなかったのである。
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