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「乙夜之書物」に収録された斎藤利宗回想関連年表
まとめとして、「乙夜之書物」に収められた斎藤利三の三男、斎藤利宗の回想がまとめられて世に出るまでを年表形式で振り返る。
今まで書いてきたことと重複する部分が多々ある。
改めて斎藤利宗の回想を一番最初に伝えたのが誰かを明らかにするためご容赦頂きたい。
1582(天正十)年
六月二日早朝。
本能寺の変
織田信長が宿泊先の本能寺を明智光秀に襲撃されて自害。
六月十三日夕方
山崎の戦い。中国から帰ってきた羽柴秀吉と明智光秀が戦い、光秀は敗走。
夜半。坂本城に逃げる途中、殺害された。
十五日に首と死体が明智の兵の首と共に本能寺に晒された。
後、粟田口で首と胴体を縫い付けて磔とされた。
六月十七日
逃走の途中で捕えられた明智方の武将、斎藤利三が車で洛中を引き回しの上、六条河原で斬首。首と胴体を縫い付け磔にされた。
利三の三男、斎藤利宗は逃走した。
1647(正保四)年
斎藤利三の三男、徳川家旗本の斎藤佐渡守利宗が八十一歳で死去。
1669(寛文九)年
朝日一月四日付記事によれば、この頃、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春が著した「乙夜之書物」が完成。全三巻。
江戸時代前期に古老から聞いた話を書き残した書で、奥書には息子のために書き残したもので他人に見せないように書かれている。
上巻に斎藤利宗が加賀藩士である甥の井上清左衛門に語った本能寺の変についての回想が収録されている。
1921(大正十)年十二月
明治、大正のジャーナリストで刀剣研究家であった高瀬羽皐(1853~1924)が自ら主宰する『刀剣と歴史』
三十五号に「本能寺の実歴談」発表。
説明によれば高瀬氏が写本した「山鹿流(軍学)の秘書」に記されていたもので、江戸時代前期の正保・寛文の頃に明智家の旧臣が語った遺談という。
旧臣のひとりが斎藤利三の三男、斎藤利宗であった。
ただし原文そのままではなくリライトした内容。
斎藤利宗の回想で重要な点は下記。
①明智光秀と娘婿の明智秀満は事前に信長襲撃を相談していたらしい。
②六月一日。亀山城に斎藤利三ら重臣を集めると、
「信長に糾弾され進退窮まり謀反を起こす」
と告げ、利三が賛成して先陣を申し出た。
後から秀満が来て光秀に「おめでとうございます」と告げ、起請文を書くための護符と料紙を出した。(事前に起請文を書かせる準備をしていた)
③信長に軍勢を見せる名目で京都に進軍することや戌の上刻(午後七時頃)に出発することが決められた。
④桂川を渡った後、河原で信長襲撃を奉行や物頭に伝えた。これは最初の予定通りだった。
⑤本能寺へは明智秀満、斎藤利三を大将に三千人余りが押し寄せた。
⑥本能寺に着いたとき、寺から水をくみに出た下男が軍勢に気づきあわてて引っ込んだ。
門を打ち破って攻め入ると、信長が白綾の寝衣姿で防戦した。
⑦信長は京都の鳥羽で待機していたが、本能寺に火の手が上がるのを見て急ぎ馬で駆けつけた。
2010(平成二十二)十月
『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』 藤本正行 歴史新書y
が刊行される
本能寺の変の全貌を多角的に分析して、本能寺の変の「黒幕説」を否定した。
「第三章五 注目すべき利三の息子の遺談」(183頁~)で「本能寺の実歴談」を要約して紹介。
原文ではなく高瀬氏のリライトであるなど問題点を認めながらも肯定的に評価。
「光秀が鳥羽に待機していた」エピソードについては、
<光秀が本能寺襲撃の際、主力を率いて後方に待機していたことは諸資料に一致する>
としている。
2021(令和三)一月
「朝日新聞」をはじめ全国紙が、「乙夜之書物」に本能寺の変に参加した斎藤利宗の回想が収録されていると報じた。
「朝日新聞」、は一月四日付の一面で、
<光秀は本能寺(京都市中央区)の現場には行かず部下に実行させていたとする学説が出てきた>(引用文)
と報じた。
「朝日新聞」の記事によれば、
<(「乙夜之書物」)の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関する部分が注目されていた。
このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした>(引用文)
さらに二十六面で、萩原学芸員の主張を紹介している。
<「乙夜之書物」には「光秀は鳥羽ニヒカエタリ」と、光秀が本能寺に行かなかったことが記されているほか、本能寺の変に関わる以下の四点が新しい情報とみている。
①光秀重臣の斎藤利三が事件前日の六月一日昼に亀山城(京都府亀山市)を訪れ、光秀謀反の決断を知る。
②光秀軍の亀山城の出発は一日の日暮れ。
③光秀軍の兵たちが本能寺に向かうことを告げられたのは、真夜中に休憩した桂川の河原
④(二日早朝)信長側の光秀軍襲撃の第一発見者は寺で水をくむために門外に出てきた召使。信長は乱れ髪で白い帷子姿>(引用文)
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