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付録1 明智光秀が本能寺にいたかどうかについて
本能寺の変のときに明智光秀がどこにいたか?
「朝日新聞」は2021年1月4日付記事で、新しい「学説」について報じた際、次のように書いている。
(「朝日新聞」1/4記事引用)
これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。
私は織田信長について書かれた歴史書は数多く読んだが、特に「本能寺の変」のときに明智光秀が寺にいたかどうかについて触れた歴史書自体、少なかった。
当時の合戦では、前線の兵士が主に戦って総大将は後方の本陣で待機しているのが一般的だった。
「桶狭間の戦い」を思い出して貰いたい。
今川義元は後方の本陣に待機していた。実際に織田方の砦を攻撃したのは、「前衛部隊」の兵だった。
「参考資料」として挙げた谷口氏の著作では、本能寺を実際に攻撃したのは斎藤利三など先鋒部隊だったろうと書いている。
藤本氏も光秀が後方の鳥羽で待機していたというのは、「諸史料に一致」と指摘している。
高瀬氏も藤本氏も、光秀の鳥羽待機の記述について、それほど重視はしていない。
要するに信長襲撃を指示したのは明智光秀であることがハッキリしている以上、光秀がどこにいたかなどそれほど学界で議論になっていなかったのである。
総大将の明智光秀が自ら先頭にたって槍を構え、本能寺の信長に立ち向っていくようなシーンが常識的にある訳もない。
斎藤利宗の回想が史料として評価されるようになれば、明智光秀が後方に待機していたハッキリした裏付けにはなるが、「朝日新聞」の記事を読むとわざわざ「議論」という言葉が出てきたり、火のないところに煙を立てている印象を持つ。
「報道」が持つ問題点をそのままなぞっているように思う。
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