ドキュメント 本能寺の変

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ドキュメント 本能寺の変

 1582(天正(てんしょう)十)年四月。  織田信長の長年の宿敵、武田氏は重臣である穴山梅雪(あなやまばいせつ)らの裏切りで滅亡。当主の武田勝頼(たけだかつより)は自害した。  信長は穴山梅雪ら信長に協力した武田家重臣の領地を認め、それ以外の武田の旧領地は盟友である徳川家康(とくがわいえやす)、家臣の滝川一益(たきかわいちます)河尻秀隆(かわじりひでたか)森長可(もりながよし)がそれぞれ知行する(治める)こととなった。  五月十四日。  徳川家康は梅雪と共に信長へ領土のお礼をするため、安土城を訪れて信長の歓迎を受けた。  饗応役は明智光秀が務めた。  武田家討伐の大将であった信長の後継者の信忠(のぶただ)も任務を終え、当時は安土にいた。  ちょうどその頃である。  中国地方を治める戦国大名、毛利氏配下にある備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)(現在の岡山県岡山市)を包囲していた羽柴秀吉(はしばひでよし)より信長に援軍の要請があった。毛利の援軍が来たというのが理由であった。  信長は自ら出陣し毛利氏を滅ぼし九州まで平定すると伝えた。  そして畿内(きない)にいた家臣たちには直ちに出陣の準備をするように命じた。  五月十七日。  明智光秀は備中へ出陣のため饗応役を解かれ居城、坂本城(さかもとじょう)(現在の滋賀県大津市)に戻った。  五月二十一日。  徳川家康は穴山梅雪と共に信忠に案内され上洛。  五月二十六日。  明智光秀は坂本を出て亀山(かめやま)(現在の京都府亀岡市)に向かった。  五月二十七日。  明智光秀は愛宕山(あたごやま)に参詣して一泊。  五月二十八日。  明智光秀は愛宕山の西坊(にしのぼう)で、里村紹巴(さとむらじょうは)をはじめ連歌師(れんがし)たちを招き連歌を催した。  連歌とは短歌の上の句と下の句をふたりで詠んでいく形式である。光秀の発句(ほっく)(連歌の最初の句)に始まり百韻(ひゃくいん)がつくられた。  光秀の発句(ほっく)(連歌の最初の句)が有名な  <ときは今天(あめ)下知(したし)五月哉(さつきかな)> である。  光秀は美濃を治めていた土岐氏(ときし)の一族だったともいわれ、「天が下知る」と共に天下への野望を詠んだともいわれる。  実際には深読みすればそう読めないこともないという程度である。  百韻の連歌は神前に供えられた。  その後、光秀は亀山に戻った。  この時既に信長襲撃を計画していたことは間違いなく、愛宕山参詣や神前での連歌を催したのも願かけであろう。  五月二十九日。  徳川家康は梅雪と共に京都から堺(現在の大阪府堺市)に移った。  同行の予定だった信忠は、織田信長上洛の知らせを聞いて京都に留まった。  同日。  信長は小姓二、三十人と共に上洛して本能寺(現在の京都市中京区)に入った。  家臣に対しては、  「京都に上洛後、直ちに中国へ出陣するので、命令があり次第、出陣できるよう準備を整えておくように」 と命令していたため、特に軍勢は連れず少人数の上洛だった。  少人数の移動は信長にとっては特に珍しいことではなかったが、結果的に信長の命取りとなった。  当日は本能寺に宿泊した。  当時、信長の重臣は各地に散っていた。  まず羽柴秀吉が備中。  丹羽長秀(にわながひで)三男信孝(のぶたか)と共に四国の長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めるため大阪に待機していた。  織田家の最有力武将の柴田勝家(しばたかついえ)は北陸で前田利家(まえだとしいえ)佐々成政(ささなりまさ)らと共に上杉軍とにらみあっていた。  滝川一益は旧武田領の経営に携わっていた。   六月一日。   正親町天皇(おおぎまちてんのう)誠人親王(さねひとしんのう)(天皇の嫡男)の勅使(ちょくし)として勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)甘露寺経基(かんろじつねもと)が本能寺を訪問した。  また約四十人の公家衆も本能寺を訪れ信長と歓談した。  明智光秀は亀山城で、娘婿である明智弥平次秀満(あけちやへいじひでみつ)斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)ら重臣たちに信長襲撃を打ち明けたという。  夜半。  一万を超える明智軍が亀山城を出発。  桂川を超えて京都へ向かった。表向き兵士たちには、京都で信長の閲兵を受けるためと説明がされていたという。  
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