25人が本棚に入れています
本棚に追加
ドキュメント 本能寺の変
1582(天正十)年四月。
織田信長の長年の宿敵、武田氏は重臣である穴山梅雪らの裏切りで滅亡。当主の武田勝頼は自害した。
信長は穴山梅雪ら信長に協力した武田家重臣の領地を認め、それ以外の武田の旧領地は盟友である徳川家康、家臣の滝川一益、河尻秀隆、森長可がそれぞれ知行する(治める)こととなった。
五月十四日。
徳川家康は梅雪と共に信長へ領土のお礼をするため、安土城を訪れて信長の歓迎を受けた。
饗応役は明智光秀が務めた。
武田家討伐の大将であった信長の後継者の信忠も任務を終え、当時は安土にいた。
ちょうどその頃である。
中国地方を治める戦国大名、毛利氏配下にある備中高松城(現在の岡山県岡山市)を包囲していた羽柴秀吉より信長に援軍の要請があった。毛利の援軍が来たというのが理由であった。
信長は自ら出陣し毛利氏を滅ぼし九州まで平定すると伝えた。
そして畿内にいた家臣たちには直ちに出陣の準備をするように命じた。
五月十七日。
明智光秀は備中へ出陣のため饗応役を解かれ居城、坂本城(現在の滋賀県大津市)に戻った。
五月二十一日。
徳川家康は穴山梅雪と共に信忠に案内され上洛。
五月二十六日。
明智光秀は坂本を出て亀山(現在の京都府亀岡市)に向かった。
五月二十七日。
明智光秀は愛宕山に参詣して一泊。
五月二十八日。
明智光秀は愛宕山の西坊で、里村紹巴をはじめ連歌師たちを招き連歌を催した。
連歌とは短歌の上の句と下の句をふたりで詠んでいく形式である。光秀の発句(連歌の最初の句)に始まり百韻がつくられた。
光秀の発句(連歌の最初の句)が有名な
<ときは今天が下知る五月哉>
である。
光秀は美濃を治めていた土岐氏の一族だったともいわれ、「天が下知る」と共に天下への野望を詠んだともいわれる。
実際には深読みすればそう読めないこともないという程度である。
百韻の連歌は神前に供えられた。
その後、光秀は亀山に戻った。
この時既に信長襲撃を計画していたことは間違いなく、愛宕山参詣や神前での連歌を催したのも願かけであろう。
五月二十九日。
徳川家康は梅雪と共に京都から堺(現在の大阪府堺市)に移った。
同行の予定だった信忠は、織田信長上洛の知らせを聞いて京都に留まった。
同日。
信長は小姓二、三十人と共に上洛して本能寺(現在の京都市中京区)に入った。
家臣に対しては、
「京都に上洛後、直ちに中国へ出陣するので、命令があり次第、出陣できるよう準備を整えておくように」
と命令していたため、特に軍勢は連れず少人数の上洛だった。
少人数の移動は信長にとっては特に珍しいことではなかったが、結果的に信長の命取りとなった。
当日は本能寺に宿泊した。
当時、信長の重臣は各地に散っていた。
まず羽柴秀吉が備中。
丹羽長秀は三男信孝と共に四国の長曾我部元親を攻めるため大阪に待機していた。
織田家の最有力武将の柴田勝家は北陸で前田利家、佐々成政らと共に上杉軍とにらみあっていた。
滝川一益は旧武田領の経営に携わっていた。
六月一日。
正親町天皇と誠人親王(天皇の嫡男)の勅使として勧修寺晴豊と甘露寺経基が本能寺を訪問した。
また約四十人の公家衆も本能寺を訪れ信長と歓談した。
明智光秀は亀山城で、娘婿である明智弥平次秀満、斎藤内蔵助利三ら重臣たちに信長襲撃を打ち明けたという。
夜半。
一万を超える明智軍が亀山城を出発。
桂川を超えて京都へ向かった。表向き兵士たちには、京都で信長の閲兵を受けるためと説明がされていたという。
最初のコメントを投稿しよう!