ドキュメント 本能寺の変

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 1582(天正(てんしょう)十)年六月二日。(太陽暦七月一日)  早朝。  明智の軍勢は本能寺を包囲した。  本能寺は水堀と土塁に囲まれ四方約四町(約四三六m)の建物であったという。  公家の山科言経(やましなときつね)が記した日記、『言経卿記』《ときつねきょうき》によれば、襲撃は「卯刻(うのこく)」(午前六時頃)だったという。  信長の家臣、太田牛一(おおたぎゅういち)の著した『信長公記(しんちょうこうき)』は信長の最期についてこう書いている。  明智の軍勢は本能寺に乱入した。  信長様や小姓たちは、  「下々の者が喧嘩でもしているのか」 と思っていたが、そのうちにときの声が上がり鉄砲が撃ち込まれた。  「これは謀反か?何者の企てか」  信長様がお尋ねになる。  小姓の森乱丸(もりらんまる)が、  「どうやら明智の軍勢と思われます」 と答えると、  「是非に及ばず(この場合、「とにかく迎え撃て」といったニュアンスの言葉とされる)」 とお答えがあった。  小姓たちが奮戦したが次々と討たれていく。  信長様は弓をとって二、三の矢を射たものの既に命運は定まっていたらしく、弓の弦が切れた。  その後、槍をとって戦ったものの肘に傷を負い引き下がった。  そして身の回りの世話をしていた女性たちに、  「私に従う必要はない。すぐに逃げなさい」 と退去させた。  自分の最期を敵に見せないためか、燃えさかる本能寺の奥に入って納戸の戸口を閉めて無情にも切腹して果てた。  女性たちはその時までそばにいたため、一部始終を見て後になってこのときの様子を私に話したのである。  その後、二条御所に立てこもった信忠も明智軍の猛攻の前に自害して果てた。  午前ハ時前後と思われる。            
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