斎藤利宗の回想とは?

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斎藤利宗の回想とは?

 実は藤本正行氏の『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』は、鈴木眞哉氏との共著で書かれた『信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う』(2006 新書y)の続編ともいうべきもので、一時期流行して今も忘れた頃に取り上げられる  「本能寺の変には黒幕がいた。黒幕は・・・である」 という説を網羅し、いずれもその説が成り立たないことを立証したものである。  三重大学教授だった藤田達生(ふじたたつお)氏が唱えて一時話題になった「足利義昭黒幕説」についても、藤田氏が「証拠」として持ち出してきた手紙の内容自体明かな誤読であると、読者が納得できるように丁寧に説明している。  このエッセーでは省略するが、本能寺の変に興味のある方は是非ご一読頂きたい。  ひとつだけ取り上げておく。  明智光秀は本能寺の変の後に、足利義昭に仕えていた頃からの盟友である細川藤孝(ほそかわふじたか)に手紙を書いており、その中で、  <どうか私に協力して欲しい> と懇願している。(6/9付)   足利義昭が本能寺の変の「黒幕」なら、義昭と関係の深かった藤孝にハッキリそれを持ち出すはずである。  光秀が藤孝に語っているのは、  <今度のことは忠興(藤孝の息子で光秀の娘婿。娘というのは細川ガラシャのこと)などをとりたてるためにやったことであり、落ち着いたら私は隠居する> と忠興の名前を持ち出し、  「信長を襲ったのは、全てあなたたちのためにしたことだ」 と訴えているのである。  この手紙だけでも、義昭が黒幕ではない第一級の「証拠」になるといえよう。  さて藤本氏は第三章で、斎藤利宗(さいとうとしむね)の回想について取り上げている。  斎藤利宗は、明智光秀の重臣で本能寺の変の際に中心的役割を果たした斎藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)(1534~1582)の三男である。  利三は明智光秀が山崎の戦いに破れた後に捕らえられ、引き回しの上、六条河原で(はりつけ)となった。  娘のひとりが、徳川幕府三代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)の乳母として権勢をふるった春日局(かすがのつぼね)である。そのため、一族の者たちも栄達に預かった。  非常に重要なので、利宗の回想を紹介する部分はそのまま引用する。  <•••明治・大正期のジャーナリストで社会事業家、愛刀家でもあった高瀬羽皐(たかせうこう)氏(1853~1924)が主宰した『刀剣と歴史』一三五号(大正十年一二月)に掲載された高瀬氏の「本能寺の実歴談」である。そこには高瀬氏が所持していた「山鹿流(軍学)の秘書」として江戸前期の正保(しょうほう)寛文(かんぶん)の頃(一七世紀中期)に明智家の旧臣が語った遺談の筆記なるものが紹介されている。この旧臣の一人が、斎藤利三の三男で、のちに徳川幕府の旗本になった斎藤佐渡守利宗(さいとうさどのかみとしむね)である。  『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)によれば、利宗は正保四年(1647)に八十一歳で没している。  『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)』には「天正十年、光秀本能寺を襲うとき、利宗、兄甚平(じんぺい)とおなじく戦功あり(後略)」とある>    私は『刀剣と歴史』については未だ読んでいない。  藤本氏は鈴木眞哉氏からこの本を紹介されて直接、読んだうえ高瀬氏の掲載した斎藤利宗の回想を要約して紹介している。ところどころ利宗の回想の原文が挿入される。  ただし藤本氏は、高瀬氏の記事の問題点もハッキリ指摘している。    <そもそもこれは史料の原本でも写本でもない。これを掲載した「本能寺の実歴談」に「羽皐は多年此類の古写本を自写しておいた」とあるように、高瀬羽皐氏が古写本を転写したものなのだ。しかも「本能寺の実歴談」に掲載されたそれは、正確な翻刻ではない。高瀬氏が「原文は古體で読みにくいから時文に直しまた他の古記をも参考にして成丈(なるたけ)分かり易くした」と明記しているように、原文をリライトしたもので(中略)ある>  そのうえで藤本氏は次のように結ぶ。  <・・・内容に、部分的にせよ常識的にみて納得できるところがある。少なくとも本能寺の変を考える材料にはなるはずだ。これを無視するのは惜しいので、ここで紹介し、読者諸賢の判断を仰ぐことにした>  一応、ポイントを整理しておきたい。 ①山鹿素行(やまがそこう)(1622~1685)を開祖とする山鹿流(軍学)の書の中に本能寺の変に参加した斎藤利宗をはじめ、明智光秀の旧臣の回想が語られていた。 ②1921(大正十)年。ジャーナリストの高瀬羽皐氏が自らの雑誌『刀剣と歴史』一三五号に山鹿流軍学の書にあった斎藤利宗の回想を「本能寺の実歴談」と題して掲載した。  ただし原文をそのまま掲載したのではなく、高瀬氏がリライトした形跡が認められる。 ③藤本正行氏が2010年に刊行した『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』の中で、「本能寺の実歴談」を要約し斎藤利宗が本能寺の変に参加したときの回想として紹介した。  付け加えると高瀬羽皐は、講談社の『日本人名大辞典』に次のように紹介されている。(要約)  <高瀬羽皐(たかせうこう)  1853-1924 明治-大正時代のジャーナリスト,社会事業家。  嘉永六年生まれ。  仙台で「東北毎日新聞」を発刊し,自由民権論をとなえる。  明治15年上京。戯作者に転身。  18年わが国最初の予備感化院(のち東京感化院)を創設。  大正13年11月17日死去。72歳。  常陸(茨城県)出身。著作に「刀剣談」「水戸史談」など>  では次の頁から、斎藤利宗の回想を要約してみる。  藤本正行氏の紹介を基にした部分的な要約であり、興味のある方は是非藤本氏の著作を直接読んで頂くことをお勧めする。    
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