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本能寺の変 斎藤利宗の回想①私はおかしくなったのだろうか!
【最初に】
くだくだしくなるが重要なことなので再度申し上げる。
今から紹介する斎藤利宗の回想は、大正十年にジャーナリストの高瀬羽皐氏が紹介した斎藤利宗の遺談に基づく。
高瀬氏によれば、山鹿流の軍学書に記載されていたものを写本したものという。
その後、平成になって洋泉社の歴史新書y『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』(2010)の中で著者、藤本正行氏が高瀬氏の記事を要約、解説した。
倉橋は藤本氏の要約の一部をリライトして紹介する。
明智光秀は織田信長より中国出陣を命ぜられた。
六月一日に家臣に対し、亀山城に集合するように光秀からの指示があった。
当時、福知山城を預かっていた斎藤利三も亀山城に向かった。
どうやら、光秀は娘婿の明智秀満とあらかじめ打ち合わせをしていたようだ。
光秀は一日の朝より利三の到着を今か今かと待っていた。昼頃に到着すると、自ら玄関の敷台まで利三を出迎え奥の数寄屋(茶室)に案内した。
それから先のことは、後で父、利三から聞いたことである。
同席したのは阿部淡路守、柴田源左衛門など老臣三、四名。
光秀は家臣を前にため息をついて語った。
「貴公たちに申したいことがある。
どうやら私は気が狂ってしまったようだ。
貴公たちの命を貰い受けなければならぬ。
私に同意して貰えればよいが、もし出来ないというのなら、この場でこの光秀の首をはねて頂きたい」
利三が言う。
「主の大事!誰が見放すと申しましょうか。
この利三。拙者の命を殿にお預けする所存です」
重臣たちも続ける。
「我らも利三と同じでございます。既にこの命、殿にお預けした以上、何も申し上げることはございません」
光秀は言う。
「ほかでもない。
私には殺されるほどの罪科はないのだが、信長公は私を成敗すると数ケ条の罪をあげられた。
もはや逃れられぬ立場に至ったため、謀反を企てる次第である」
利三はこれを聞き、
「これまで延ばしていたことこそ、遅すぎたくらいでございます。
すみやかにご決断のほどを。
恐れながら先陣は、この利三が務めさせて頂きます」
と答えた。
光秀は喜んで秀満を呼ぶ。
秀満が勝手口から出てきた。
光秀が、
「皆は同意したぞ」
と伝えると、
「おめでとうございます」
と挨拶を述べた。
光秀が、
「用意のものを」
と促すと、秀満が熊野午王の護符と料紙を出した。
その場で家臣たちに起請文を書かせたうえ、奉行、物頭(奉行、物頭は軍の役職名)には行軍の途中で伝えることや、中国出陣の人数を信長公にお見せするという名目で今夜の戌の上刻に亀山を出ることなど詳しい手筈が申刻(午後三時から五時)頃に決められた。
(起請文とは神仏への誓いのことで、この場合、信長を討つにあたっての誓約書である。
護符の裏側の紙に書くか、護符に料紙を貼りつけて記す場合もある)
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