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本能寺の変 斎藤利宗の回想②桂川を渡ってから本能寺襲撃を宣言!光秀は鳥羽に待機!
六月一日。
亀山を出発し桂川を渡ったあたりで、草鞋を履き替え、食事を摂るよう命令が下った。
わずか三里(約十二㎞)の行軍なのに途中で食事を摂るのかと兵たちはいぶかしがった。
河原で食事を済ませた後、光秀は奉行、物頭を呼び寄せて、本能寺の襲撃を宣言した。
兵たちは膝が震えるほど驚いた。
ここで手筈を決め、利三と秀満を大将として三千人あまりの兵が本能寺に押し寄せた。
夜がほのぼのと明け渡った。
先手の人々が本能寺の表門に着いたとき、寺から水くみに出た下男が小門から外を覗いて甲冑姿の兵たちに気がついた。
あわてて門内に逃げ込み、鍵をかけたようだった。
「明智日向守が中国出陣にあたり、軍勢を上様に拝見して頂くためまかり越した次第。
開門!」
と呼びかけたが返事がない。
そこで門を打ち破って扉を開き、鉄砲を打ち込んだ。近習ゃ小姓が駆けつけたが、帷子(麻などで織った夏用の着物のこと)一枚の姿だったため、すぐに二十人くらいが討死した。
森乱丸が白い帷子を羽織り槍を提げて立ち向かってきたが、本堂の縁側で討たれた。
信長公は白綾(白絹の綾織物)の寝衣姿で駆けつけて弓を執って射られたが、弦が切れたため槍を執って戦われた。何者かは分からないがふたりの者に傷つけられ奥に引き退り、杉戸を閉め奥深くへ入られた。
すぐに火の手が上がったため、利三は兵を引き揚げ、四方を固めた。
一方、明智光秀は鳥羽のあたりに待機していたが、火の手があがるのを見て馬を走らせた。
従者たちが後を追ったが誰も追いつけなかった。
六条のあたりで三、四十人が駆けつけてきた。
この後、信忠を討つために二条御所に向かった。
(鳥羽は現在の京都南部。南区上鳥羽、伏見区下鳥羽を指す。
当時は京都洛外、山城国紀伊郡に属し鳥羽郷・鳥羽荘などと呼ばれた地域)
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