薄紅の夜

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 シロさんは足音をほとんど立てない男だ。闇に隠れてしまうとどこにいるのか分からなくなって、わっちは身を乗り出して目を凝らした。 「シロ、シロさん」  囁くように呼びかける。ここだ、と存外近くで答えがあった。また足音も無く、茶鼠の裾と大きな足が現れる。  螺鈿(らでん)で蛇が描かれた煙草盆を畳に下ろして、シロさんはわっちのすぐ前に正座した。  白蛇の巻き付いた長煙管(ながぎせる)に刻み葉をつめ、火入れの炭を熾して火を吸い付ける。手馴れた仕草で差し出されたそれを受け取り、わっちはぷかりと煙を吐いた。  煙管(きせる)の口のところを懐紙で拭うのが本来の作法なのだが、わっちはシロさんにそれをさせない。シロさんの唇が触れたところにそっと唇をつけ、ゆっくりと煙をくゆらす。五・六口も吸うと灰を落とし、そこに控えて待っているシロさんに煙管を戻す。シロさんはまた黙々と葉をつめて火を吸い付け、わっちにそれを両手で差し出す。  と、同時に、茶鼠の袖からはらりと薄紅がこぼれ落ちた。 「ん……?」 「あれ」 「ほう、さくらか」  拾い上げたわっちの手元を見下ろして、シロさんは呟いた。  吉原中央を貫く仲ノ町通りには、三月(さく)の日から晦日(みそか)まで桜並木が出現する。どこぞの山からこの期間だけ移し替えられ、花が終わればまた山へ戻されるのだ。  この遊里(いろざと)で育ったわっちは、花が落ちた後の桜を目にしたことが無い。聞けば若緑の葉をびっしりと茂らせて、後に小さな赤い実をつけるのだとか。 「きれいな花びら……。今日の道中で?」 「ああ、知らぬ間に袖に入り込んだらしいな」  昼間に、満開の桜並木の下を胡蝶花魁の道中にお供した。わっちは花魁の後ろを歩き、シロさんは大きな傘を持って花魁の横を歩いた。濃紺の地に金銀の蝶が舞う優雅な打掛を羽織り、桜吹雪の中をゆったりと行く花魁は夢のように美しかった。 「まるで薄紅(うすくれない)の雨みたいに降っていなんしたなぁ」  陽光に輝く光景を思い出しながら、花びらを高々と掲げる。 「こんなふうに、ほら」  ぱっと手を離すと、薄紅は舞うようにはらはら揺れながら落ちた。シロさんは器用に指の先でそれを受け止め、そっとわっちの手のひらに戻した。 「シロさんは、今いくつでありんすか?」 「数えで二十五だ」 「わっちがいくつか知っていなんすか?」 「ああ、甚右衛門さんに拾われたのが四、五歳ほどだったから、そろそろ十四か十五くらいか」  手のひらの上の桜に軽く爪を立てる。柔らかな花びらはあっさりとちぎれてしまった。 「うん、そう……もう十四になるの……十四になりいんす」  シロさんはわっちがちぎった花びらを見て何か言うように口を開いたが、結局言葉を出さずにまた口を閉ざした。  (よわい)十四。わっちがその歳になったとわざわざ話題にする意味に気が付いたのだろう。
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