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そろそろどうかね。
道中の前におとさまは言った。
そろそろどうかね。
今日は一日、その一言が頭の中をぐるぐると回っている。
はあぁ……と。
強くまぶたを閉じてゆっくり息を吐く。
「捨吉、どうした」
温かくて大きなシロさんの手が、わっちの右足の甲をさすった。
胡坐をかいた膝の上に白檀を焚き染めた匂い紙を敷いて、その上にわっちの右足を乗せている。伸びかけた爪に、やすりをかけてくれていたのだ。
「悪い、痛くしたか」
「……いいや」
口の端を上げて笑んで見せると、安心したように小さく息を吐くのが聞こえた。
シロさんに痛くされたことなどただの一度もありはしないのに、この男はしょっちゅうそれをわっちに聞く。
痛くはないか。
苦しくはないか。
寒くはないか。
暑くはないか。
腹は空かないか。
よく眠れるか。
……欲しいものは、ないか。
「シロさん」
「ん」
呼びかければ、白髪を後ろで無造作に束ねた男がわっちの顔を覗き込んでくる。上背が六尺近くもあるシロさんは、いつも猫みたいに背中を丸めて下の方から見上げてくる。わっちがまだシロさんの半分くらいしかなかった幼い時分からずっとだ。
「……やっぱり何でもない……何でも、ありいせん」
使い慣れない廓の言葉に言い直す。姐さん達の使うそれは、もともとお国訛りを隠すためのものだったらしいが、今では一人前の遊女の嗜みだ。おとさまに『そろそろ』と言われたわっちも、訛りは無くともそろそろ覚えた方が良いのだろう。
「何でもありんせんわいなぁ」
少し節を付けて言ってみる。
シロさんは軽く眉を上げただけで、すぐにいつもの穏やかな笑みに戻り、うなずいた。
「そうか」
シロさんの大きな手の中で、わっちの足は小さく見える。
す、す、す、とやすりが規則正しく前後する。そのたびに、珊瑚色の匂い紙に白い粉が落ちていく。太くしっかりした男の指が、まるで踊るように器用に動くさまは、いつもながら見ていて不思議な感じを覚えた。
丑の刻。
新吉原一丁目、大見世『七國屋』、二階に四つある八畳間のひとつ。
不寝番の若い衆幾人かを除けば、廓の中は女郎もお客もとうに寝付いている時刻だった。
重さを持つような空気の中に、爪の削られるかすかな音が、さりさり、さりさり、と間断なく続いている。
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