薄紅の夜

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 十年前の冬の朝、わっちは大見世『七國屋』の主人七國屋甚右衛門に拾われた。吉原をぐるり囲むおはぐろどぶに、薄い氷が張った日だったという。  身に着けていたのは血の付いた白小袖のみで、しかも片袖が焦げていた。さる高貴な血筋の姫君ではないかとか、豪商の娘だったが親への恨みでひどい目に合わされたのだとか、神隠しにあった子供に違いないとか、まことしやかな噂はいくつか耳にした。だが噂は噂、わっちはただの捨て子でしかない。  凍え死にそうな体を抱いて湯に浸からせ、回復するまで世話してくれたのは白髪の大男だった。わっちの記憶はそのたくましい腕の感触から始まっている。拾われた当初、家の所、親の名前、己の名前まで、何を聞かれても答えないので、わっちは(おし)だと思われていたらしい。答えたくても答えられない、つまり何も覚えていないのだと気付いてもらえたのは拾われて数日経ってからだった。  甚右衛門に付けられた禿名(かむろな)は捨吉、本当の親がつけてくれた名前は覚えていない。 「そろそろどうかねって……道中の前におとさまに言われなんした。胡蝶姐さんも、ちょうど良い頃合いだと喜んでくれなんしたえ」  わっちは『七國屋』の禿(かむろ)、捨吉だ。禿とは、遊女の見習いのようなもの、いずれ身を売る新造(しんぞう)となる。 「そうか、甚右衛門さんが……」  甚右衛門をおとさまと呼ぶ。この見世に買われた女は誰でもそうだ。わっちはただ一人の借金の無い女ではあったけれど、それ以上に返しきれない大恩を胸に抱えていた。 『捨吉ももう十四だ。三絃も琴も踊りも十分に覚えただろう。すじが良いと御職(おしょく)が褒めていたよ。お前は色白で器量も申し分ないしねぇ。うん、そろそろどうだろうね』  柔和な笑顔でおとさまは言った。わっちは即座に『はい』とうなずいた。おとさまがそろそろと言うのなら、そろそろなのだ。  シロさんは黙ってわっちをみつめた。いつも通りの穏やかな顔は何の感情も映していない。 「それでね、お前が望むなら芝居小屋の役者でも顔のきれいな若衆でも呼んでやろうと言ってくれなんしたが……」 「何の、話だ」 「相手の話でありんす」 「あいて……」 「新鉢(あらばち)を割る相手」
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