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赤信号
ストレスチェック結果、赤信号。直ちに産業医の診断を受けてください。
「なにこれ」
見覚えのないアドレスからの、身に覚えのないメールに、レオノーラは小首を傾げた。小さなポニーテールが揺れた。
三十階建ての高層ビルの最上階にオフィスを構える、ディスペラリー株式会社ライムラック支社。医薬品製造に力を注ぐ一方で戦闘兵器を開発しているとかいないとかいう焦げ臭い会社に勤めること、半年が過ぎようとしている。上司に詳しく聞こうとしたところ、会社が何の事業をしているかもわからずに入社するなんて馬鹿じゃないの、という答えが返って来ただけで、真実は闇の中だ。確かにそうかもしれないが、しかし、そのようなぞんざいな言い方をしなくても良いのではないだろうか。そもそもレオノーラがここに入社することになったのは、この上司に引きずられてきたからだ。これが社会? これが大人の世界? 納得がいかない。
誰もが知る有名企業、ガラス細工のように美しい高層ビル、綺麗でおしゃれなオフィス、高収入、新社会人がうらやむ全てを持ち合わせているであろうことは、レオノーラもよくわかっている。わかっているがしかし。
直属の上司だけはどうにかしてほしい。
「ああそれね」
突然背後から、当の上司の低く艶やかな声が飛んできて、レオノーラは肩をふるわせた。
見上げるほどの長身、大理石の彫刻のような端正な顔立ち、氷のように怜悧な眼差し、見た目だけなら文句のつけようがないこの人物こそ、「赤信号」の元凶、エルドレッド・ギャスケルその人である。黒のシャツに純白のジャケットは、どこぞのマフィアのような出で立ちだが、正真正銘、ただの会社員だ。この会社がただの会社であるかどうかはこの際、置いておくことにしよう。
「ちゃんと診断受けといてね」
エルドレッドは資料を読みながらレオノーラの後ろを通り過ぎて行く。非常識が服を着て歩いている男に対し、レオノーラは必死で非難の声を上げた。
「ちょっと、勝手に覗かないでくださいよ」
「業務時間中の業務用の端末だろ? 僕が上司で君が部下。何か問題ある? それとも、普段は何か都合悪いものでも見てるのかな」
「そんなことする暇があるわけないでしょ! 気持ちの問題です!」
「気持ち。僕にはそういうの通じないって、いつ学んでくれるの? 頭の悪い子は嫌いなんだけど」
終始、この調子である。
レオノーラはこの会社にやってくるまで、苦手だと認識した人間ともある程度うまくやっていける自信があった。学生時代に課外活動やボランティアで培ったコミュニケーション能力は社会で武器になると、周囲からも太鼓判を押されていたほどである。そして、どうしてもそりが合わない人間に出会ってしまったとしても、会社は所詮、集団行動だ。いくらでも逃げ場はある、そう思っていた。
甘かった。
エルドレッドは三十一歳と、この会社の役職者の中ではとてつもなく若いのだが評価が高いらしく、馬鹿みたいに高い家賃のオフィスの中に自分専用の馬鹿でかい部屋を持ち、そこに秘書を置く権限を持っていた。その秘書とはまさにレオノーラのことで、それが彼女の不幸だった。基本的に一日中、この一癖二癖どころではない上司と二人で仕事をしなければならないのだ。
女性の権利向上、セクハラ反対と声高に叫ばれる社会の流れに逆行しまくっているこの会社の仕組みは、一体どうなっているのか。
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