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トンネルは、川を垂直に横切る線路の下をくぐる形になっているようだった。ただ、トンネルの向こう側は全く見えないし、線路の太さもよくわからない。そもそも、俺がまだ酔っているのでなければ、このトンネルは急に出現したとしか思えない。入っていくべきかどうか迷っていたら、「道案内しますよ」と言って逆方向にずんずん歩き出した。トンネルと女とを見比べて、仕方なくついていくことにした。
境川を下っていく。景色に見覚えはないが、単に引っ越してきたばかりだからなのか、そうでないのかはわからない。通り慣れた道でも、いつもと逆方向になるだけで知らない土地のように感じるし、そういうことなのかもしれない。少し後ろを歩く俺に、彼女がわざわざ歩調を合わせ、話しかけてくる。
「この辺に住んでるんですか?」
はきはきとした、落ち着いた話し方だった。決定的に変な女だという印象は変わらないのに、安心するような、かえって不気味なような。
たぶんそうですね。ここがどの辺かはよくわからないけど。
「藤沢には最近?」
4月に就職してからだから、4ヶ月くらいかな。
「じゃあ迷っても仕方ないですね。この辺りは結構難しいんですよ」
あなたに会うまでは迷っていなかった気がするんですけどね……。
境川で魚がぴちゃんと跳ねる。昼間の熱気を帯びた風が川下へ流れていく。切れかかった街灯がじりじり鈍く鳴る。ワンピースにはやや不釣り合いなスニーカーが、彼女の歩調に合わせてぱたぱたと音を立てる。やけに静かな夜だ。感覚が妙に鋭敏になっているような気がする。混乱していた頭も、少し落ち着いてきた。
あの、そもそもなんだけど。
「はい?」
道案内って、どこに?
「あ~そういえば、あなたの家の場所知らないですね」
当たり前だ。知られていてたまるか。それにたぶん、俺の家はもっと北、川上のほうだと思う。
「でも、こっちにしか行けないじゃないですか。大丈夫です、あたしに任せてください」
と言って、彼女はまたにこにこ笑った。落ち着いた口調の中で、鼻にかかったような子供っぽい一人称が変に浮いて聞こえた。
任せてください、と言われてほいほいついていくほど無警戒じゃないつもりだけど、地図アプリは相変わらず現在地を示してくれないので、不本意ながら任せるしかない。GPS、仕事してくれ。
「GPSと言えば、知ってます? 最近は日本版のGPSもあるらしいですよ」
なんだっけ。「みちびき」?
「そうそう。実はその衛星、藤沢で作られてるんですよ。あれ、鎌倉だったかな?」
それは知っていた。藤沢か鎌倉かは、俺もよく知らないけど。衛星だかロケットだかを作ってる工場が近くにあるらしいとは聞いたことがある。
「つまり、この辺は宇宙に繋がってる町なのかもしれないですね」
随分と雑なことを言うなあ。そもそも、鎌倉だったらそこまで近くないと思うけど。
彼女は曖昧に笑い、ふいっと目を逸らして前を向いた。
会話が途切れると、夜の静寂が聞こえてくる。どこか遠くで虫が鳴いている。置き去りにされた工事用のランプが点滅している。かすかに聞こえるのは波の音だろうか。いつの間にそんなに下ってきたのだろう。川沿いに立ち並ぶ街灯が、水面に映ってゆらゆら揺れていた。
「もうすぐ海です。ほら、見えてきました。江の島!」
彼女にも波の音が聞こえたらしい。海のほうを指さしてはしゃいだ声を上げた。確かに、うっすらと島影のようなものが見える。見えるけど……。
江の島ってこんな感じだったっけ? なんか暗いような……。
「そうですね。普段はアレが見えますから。なんだっけ、あの、江の島に刺さってる棒」
棒って。確かシーキャンドルって言うんじゃなかったっけ、あれは。
「それですそれです。あの棒、今は見えませんから」
見えないというか、ライトが点灯してないとかそういうことじゃなくて、そもそもないように見えるんだけど。
「そりゃそうですよ。そもそも江の島に棒なんてありませんから」
彼女の言葉が呑み込めず、思わず目を覗き込んだ。あくまで本気の目。なんなら、機嫌がよさそうにふわふわ笑っている。
……じゃあ、普段見えてるあれは?
「アレは、重力レンズ効果で見えてるだけなんですよ」
意味わかって言っているのかな。俺はこれっぽっちもわからないけれど。重力レンズって何?
「重力が強ければ光が曲がるってやつです。実際には遠くの宇宙を飛んでるらしいですよ、アレ。この辺は重力が強いから、はるか遠くから届いた光が曲げられて、あたかも江の島に棒が刺さっているように見えているんです。」
重力。
「そう、重力。湘南はサーフィンの聖地でしょ? サーファーが集まって毎日のように波を呼んでる。海の波は潮汐力によって発生してるから、サーファーが波を望むほど、波が高くなるほど、重力も強くなる、ってわけです」
困った。本格的に彼女の言っていることがわからなくなってしまった。ふわふわ笑う彼女にふわふわ流されてついてきてしまったけど、失敗だったかもしれないな、と今さら思った。
「まあ、信じられなければ、あたしの言うことなんか信じなくていいですよ。いつもは見えてる棒が、今は見えない、ってことだけが目に見える事実です。どう説明をつけるかは、好きにしてください」
彼女はそう言って、海に向かってぱたぱたと駆けていった。俺はその場に1人で立ちすくんだ。彼女の足音が聞こえなくなるまでたっぷり考えてから、俺も彼女を追って走り出す。
この夜のことを理解するのは、とりあえず後回しにすることにした。
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