28人が本棚に入れています
本棚に追加
「さ、触んな……」
「前髪伸びたな。切らないの?」
「……切らない」
お前がそうやって、俺を惑わすようなことするから、切れないんだよ。
「まあ……顔が隠れてちょうどいいか」
小さく独りごちた湯川が、俺の耳元に顔を寄せる。
熱い息と甘ったるい声が、わざとらしく俺の耳奥に吹き込まれる。
「今年のルール、実は俺が決めたんだ」
こういう時の湯川は、本当に苦手で。
「……っ」
見つめられた瞳に、俺は何も返せないまま、受付の長机に置かれた参加用紙に慌ててペンを走らせる。
「ルールはね、」
動揺する俺に気づいているのか、いないのか。薄く笑った隣の湯川は、俺と同じように名前を書きながら、不意に空いた右手で俺の左手をそっと握りしめた。
「最後まで手を離さないこと」
その手が全く嫌じゃないことも、言いようの無い緊張が襲ってきていることも。
悟られたくないのに。名前を記入する手が、僅かに震える。
──サガミ ユカ
嘘つきなこの名前は、俺の動揺を紛らわしてくれるだろうか。
「簡単だろ?」
ほくそ笑むこいつは、間違いなく俺にとって今一番危険なペアだと分かってる。
なのに。
近付かれる分だけ毒を盛られたみたいに、俺の思考は麻痺してきている。こいつの一挙手一投足に、心が乱されているのが分かる。
「それではYのペアさんは、これでお互いの手首を結んでくださいね!」
お化け屋敷の入り口で、女性に差し出された一枚の赤いバンダナを湯川が受け取る。
握りしめたままの手は、秋なのに熱くて、うっすら汗が滲みはじめていた。
「ゆかちん、暑い?」
湯川が器用に手首にバンダナを巻きながら、俺の顔を覗き込んだ。
「別に……」
目を逸らすと、湯川が嬉しそうに含み笑う。
「やっぱり、前髪切らなくて正解だ」
「なん、だよ……いきなり」
「ゆかちんの顔が赤いの、他の奴に見られなくて済むから」
「……うるさい」
まるで、こいつはお化け屋敷みたいだ。
怖くて、踏み込むのを躊躇うのに。
入らざるを得ない。
逃げ道なんて無い。
一度入れば、その魅力に取り憑かれてしまう。
「お待たせしました〜! Yのペアさん、どうぞ〜!」
入り口のカーテンが開かれ、担当の女性が俺たちを真っ暗な室内へと促す。
「ゆかちん、行こうか」
湯川が俺の手を引く。
繋いだままの手が僅かに離され、指と指の隙間を埋めるように長い指が絡められていく。
「離せよ……バカ」
一歩足を踏み出す。
見つめた背中は、期待通り振り返る。
「俺がゆかちんを離すわけないじゃん」
たぶん。俺はもう、お前から逃げられる気がしないよ。
fin
最初のコメントを投稿しよう!